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ラスト、コーション




監督:アン・リー/新宿バルト9/★4(78点)本家公式サイト

視線の映画。大変“読みごたえ”のある『汚名』。R-18も必然。
劇中、映画鑑賞の場面で、イングリッド・バーグマンやケイリー・グラントが写されます。
アン・リーはご丁寧に「これは『汚名』ですよ」と教えてくれているのです。毒薬も登場しますし、鍵も印象的に使用されます。
そう考えれば、過激な(と言われる)性描写は、ヒッチ先生が当時検閲の限界に挑んだ“長いキスシーン”へのオマージュにも思えてきます。

早々に行われるこの『汚名』宣言は、「スパイ映画」宣言と同時に、「今回はヒッチコック的な映画をやるよ」と宣言しているに違いありません。ならばヒッチフリークが受けて立とうじゃありませんか。

大学生時代の彼ら青二才の“計画”は、子供の発想の“芝居(舞台)”の延長戦。
実際、「撤収」の場面はまるで舞台の片付けの様に描写しています。
舞台といえば、最初に参加を求められた際に、友人の女性が「イプセンの「人形の家」をやりましょうよ」と言います。
イプセンの「人形の家」はフェミニズムと共に語られることの多い有名な戯曲なのですが、ここでもアン・リーはヒントを与えてくれています。これは「一人の女性を描いた映画です」「一人の女性が選択する映画です」と。

実際、映画は徹底したウォン視点で話を進めていきます。
ほぼ全編に渡り“ウォンの顔”と“ウォンの見た目”だけで構成されていると言っても過言ではありません。これはヒッチ先生が『ロープ』でやった実験同様、明らかに意図的なカメラワークです。ウォンの知り得る範囲内しか観客に情報を与えないよう意図されているのです。
同じように過激な性描写で話題になった『ラストタンゴ・イン・パリ』のベルトルッチがお好みの“歴史のうねり”とは大きく趣旨を異にし、一人の女性の視線に焦点を絞った映画なのです。(そしてそれは結果として、思想的なものや政治的なものをぬぐい去ることに繋がっている)

また、アン・リーは、彼女の処女喪失シーンにも重要な映画的意味を持たせます。
まず、好きでもない男に抱かれることで「愛を知る物語」への伏線となっている点。
そこまで身体を張って失敗したことで、数年後再び計画に参加する動機付けとなっている点。
そして、彼女が“大人”になることで、それまで“子供”の発想だった計画が、抜き差しならない所まで来てしまったことを表現している点。

この特訓(?)で確実に“誘惑”というキーワードを観客に与えておいて、アン・リーは観客を裏切ります。相手はドSだったのです。痴女物だと思って借りたら凌辱物かよっ!とAVなら怒ってるところです。
ところがこの性描写ですら無駄がない。ここでは、「誰にも心を開かない男」の“解放”を描いているのです。

それは絶頂に達した際のトニー・レオンの表情を見れば分かります。
また、バックから一方的に攻めていたドS男が騎乗位を許し、あまつさえ「オオッ!」とか声まで漏らすのです。そうです。今私は真面目な口調でバカ話をしています。
また、最初の凌辱シーンで、ドエス・レオンがベルトで彼女の手を縛りますが、その手際のいいこと。これは「慣れている」ことを表現しています。いや、SMプレイに慣れているんじゃありません。“拷問”に慣れているのです。おそらく、しばしば犯罪者をこうした手口で痛めつけているのでしょう。

先に述べた通り、女性の一人称視点のみで描くという実験をしているわけですから、こうした些細な描写からも背景を読み取れる工夫をしているのでしょう。

この度重なる性交で、男は身も心も解放しましたが、女性の方はどうだったのでしょう?
このシーンをもって「愛の映画だ」的な宣伝がされているようですが、私は「仕事半分」「愛情半分」だったと解釈します。
たしか、「旦那様は?」「南京にお出かけに」みたいな話を婆や(?)とするシーンで、彼女の姿は鏡に写っていたと記憶しています。
おそらく、このシーンで彼女の心の二面性を描いているのでしょう。

最終的に「愛」に至る場面は、最後の最後、カプセルをコートの襟から取り出すシーンではないかと思うのです。
私は「ここでThe Endでいいのに」と思ったのですが、今思い返してみると、一つの画面の中にカプセルと指輪が写っているんですね。
要するに、カプセル(=仕事)を身体から引き剥がし指輪(=愛)を選択する。イプセンの「人形の家」同様、一人の女性が初めて自ら進む道を選択する。
だから、事ここに至って初めて“真の愛の映画”に至るような気がするのです。

映画はここから一人称視点をやめてしまいます。
その後はエピローグ的な扱いなのか、“舞台”上の主人公が変わったという意味なのか、単に手詰まりになっただけなのか、ちょっと私には分かりません。
ですが、画面一杯に映し出される採石場はまるで舞台の幕が降りたように見えるのです(カメラが上にパンしたのか移動したのか忘れましたが)。
そこにあるのは、彼女が登った舞台の幕と、人生の幕と、両方が降りる瞬間なのです。

こうして考えると、この映画は“舞台”をキーワードに、舞台では不可能な一人称視点の“カメラワーク”を試みた映画だと言えます。
そしてそれは、繰り返しになりますが、一見何気ない娯楽映画に見えて実は大変な実験精神に溢れたアルフレッド・ヒッチコック作品へのオマージュでもあるのです。

デ・パルマには出来ない。

日本公開2008年2月2日(2007年 米=中=台湾=香港)

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