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監督・ばんざい!




監督:北野武/新宿キタノ・タイムズスクエア(本当はタカシマヤ・タイムズスクエア)/★1(5点)
本家goo movie公式サイト

北野武の『8 1/2』。映画監督としての彼のポジションを決定付ける重要な作品かもしれない。
後日『大日本人』でも同じことを書くかもしれないが、松本人志はこう言っている。
「映画でコントはできない。可能なのは喜劇だけ。」

ホームドラマ、恋愛、ホラー。劇中の北野監督は苦手だったようだが、本当の北野監督が苦手なのは“喜劇”だった!という壮大なオチの映画だと理解している。

ギャグが面白かったか否かだけがこの点数の根拠ではない。
もちろん面白かった人もいるだろうし、私自身もっと笑えていればもっと高い点数を付けたかもしれない。
疑問に感じるのは監督の姿勢というか、彼があろうとする“立ち位置”だ。

“芸人”たけしの立ち位置については、私の信頼するコメンテーター水那岐さんが「ギャグに臆病になっている」という言葉で的確な指摘をされている。実際、本作以前も「誰でもピカソ」よろしく若手芸人紹介を何度も繰り返し、自身はその舞台に上がろうとしない。

私が指摘したいのは“映画監督”北野武の姿勢。
映画の形式自体はアリだと思う。
実際、悩める監督物はフェリーニ『8 1/2』を筆頭に多くある。
だが多くの場合、その悩みは監督自身の問題へと昇華する(役者に焦点を合わせる場合も多いが)。
マストロヤンニに託したフェリーニも、自身が演じた『さよなら、さよならハリウッド』のウディ・アレンも、直接・間接を問わず「映画監督とは?」=「自分とは?」という命題に迫っていく。
だからこそ“映画”足り得たし、彼らは巨匠・名匠足り得た。

ところが北野武はそこから逃げた。“もの言わぬ”人形に託して意識的に逃走した。
設定に監督本人を用いながら、最終的な結論は自分自身から離れていく。
「昭和30年代物」で監督自身に迫るのかと思いきや、ネタ見せだけで終わる。
役者ビートたけしは徹底して何もしないかと思いきや、時代劇だけ能動的になり一貫性がない。
終いにゃ「壊れてます」の一言で安全牌を打つ。これは酷い逃げだ。麻雀で言えばベタ降りだ。

では、なぜ逃げるのか?

それでも“映画”にしてしまえる巨匠・名匠の類ではない。自分はそういう監督じゃない。
意識的か無意識か分からないが、おそらく北野武はそう言っているのだろう。「売れる映画を!」という劇中の設定とは裏腹に。

たぶんこの映画、否、ここ数作で、映画監督としての彼のポジションは決定付けられたと思う。
「一部熱狂的なファンを持つカルト監督。」
決して「世界のキタノ」なんかじゃない。

そして、「やりたいことがいろいろあったわけじゃなく、やりたいことが無かったんじゃなかろうか?」
と疑いたくなる本作は、私自身も含めてそのカルトファンまでも失うことにならないだろうか?
私には、一言も発しない北野武の“逃げ”が、“照れ”ではなく“姑息”に見える。

あー、映画が観たい。フェリーニみたいな計画的なんだか違うんだか分からないけど“圧倒的な映画的瞬間”のある映画が観たい。

余談

併映のカンヌ映画祭60周年記念映画の一本「素晴らしき休日」(3分の短編)もどうしたもんかなあ。

2007年6月1日公開(オフィス北野・配給東京テアトル)

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