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ぼくを葬(おく)る




監督:フランソワ・オゾン/日比谷シャンテシネ2/★4(70点)/本家/goo movie公式サイト

フランス版『八月のクリスマス』。オゾン版『生きる』。
「死にざま映画」というジャンルがある。いや、本当はそんなジャンルはない。勝手に命名した。

例えば北野武は「死にざま映画」を好んで作る。
ただこの「死にざま映画」も大きく分けて2つに分類される。
自ら死を望むパターン(不慮の死でも振り返ってみれば自ら死を呼び寄せたと考えられるパターンも含む)と死を宣告されるパターンだ。
北野武は前者で、この映画は後者に当たる。
「いかにして死ぬか」と「死ぬまでに何をするか」と言い換えてもいい。

ちなみに、どうやらカッコイイ死にざまに憧れるのは常に男で、女性の死にざま映画というのはあまり見かけない。
私の友人に「死ぬ時は凶弾に倒れたい・・・80歳くらいになってから」と言っていた奴がいたが、とりあえず長生きしてかっこよく死にたいらしい。つーか、凶弾に倒れる80歳ってどんな生活してる奴だよ。
(ちなみに、映画的にはジャン・ポール・ベルモンド以降、日本的には「太陽にほえろ」の松田優作以降、「ブザマな死にざま」が「カッコイイ」という概念に変わったのではないかと推測している)

自ら死を望むパターンはネタバレになる可能性が高いので例を挙げないが、死を宣告されるパターンは「設定」なので許してもらえるだろう。
私は黒澤の『生きる』とホ・ジノの『八月のクリスマス』が代表的な例だと思っている。

その2つとこの映画は、その趣旨が大きく異なっている。国柄の違いもあるだろうが、時代の違いと解釈する方が自然に思える。

『生きる』は、死を宣告された男が何かを残す物語である。誰がどう見たって「美談」なのである。
『八月のクリスマス』は、飛ぶ鳥跡を濁さずという映画である。何かを残すにしてもごく私的な範囲である。物語的にも映画的にも「知る人ぞ知る美談」である。

ところがこの映画はどうだ。私的な傾向はさらに進行し、ほとんど美談と呼べるエピソードは無い。
ここにあるのは、他人に対する行為ではなく、自己を見つめ直す行為だけだ。

私は、この映画の極めて「私的」な点を高く評価する。
死に直面した人間が(どうやら優しい気持ちにはなるらしいが)、美談として伝えられる「いい人」に常になるとは思えないのだ。

劇中、男は語る。「夢の中なら誰とでも寝られる。家族や昔の自分でも。」
彼はそれをカメラで実践する。SEXのメタファーとして、カメラで身近な者を犯し、街を犯し、風景を犯す。

下手すればその写真を見せて涙を誘いたくなるところだが、オゾンはそうしたことをしない。
オゾンの主目的は泣かせでも同情でもない。ただひたすら、真摯に自己を見つめる「人間」を描きたかったからに違いない。

惜しむらくは、私の目が、女性の裸は自動追尾しても男性の裸体はフィルタリングされて脳まで情報が届かないようにできているため、画面の3分の1近くを理解していないことだ。

日本公開2006年4月22日(2005年 仏)


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