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単騎、千里を走る。

監督:チャン・イーモウ/新宿文化4/★4(78点)本家goo movie公式サイト

裏でビートを刻むようなちょっと面白い構成。
いきなり余談だが、冒頭いきなり「チャン・イーモウの画面じゃない」と思う。
前2作がツイ・ハークが憑依していたもんだから、今度は誰が憑依してんのかと思ったら、憑依じゃなくて降旗康男本人じゃん。
改めて気付いたけど、木村大作のカメラってシャープだなあ。冷たい北の海と暖かい中国大地との対比が見事に描写されていたと思う。ま、たぶん偶然だろうけど。

で、この映画、ちょっと奇妙な、というか面白い作りをしていると思う。

誰一人目的の人物に出会えていない(目的を果たせていない)のに、ちゃんと「出会いの物語」(目的を果たす物語)になっている。
これはかなり高度な技。
泣かせ目的なら、二組の親子は出会っていい。ハリウッドならそうしているでしょう。
でも肉体的には会わせない。しかし精神的には充足している。

コミュニケーションのとり方も同様。
携帯電話やビデオ撮影(高倉健と息子のコミュニケーションになるはずだった)という、物理的・近代的なコミュニケーション手段を駆使する。
でも、最終的には無言の抱擁だったり、歌だったり、「言葉」ではなく、生身の人間としてのコミュニケーションに帰結する。

この“裏ビート”はかなり意図的で、「その劇自体に意味はない」というクダリで明確化される。
つまり、目的を果たした結果で何かを得るのではなく、「無意識」のうちに「贖罪の道程」を歩むという結果を残す、という見事な作り込みがなされている。感服した。

以前から書いているが、チャン・イーモウは「失われゆく文化」「失われゆく精神」をすくい取る監督である(前2作を除いて)。
だから必然として、地方を舞台としたり、過去設定(初期作品に多い)にしたりすることが多くなる。
端的な例は『初恋のきた道』。この映画は偶然、それまで少しずつ積み重なったファンが一気に爆発し(これを私は椎名林檎「本能」現象と呼ぶ)、且つ、突然降って湧いた妖精チャン・ツィイー登場(これはオードリ・ヘップバーン『ローマの休日』現象と呼ぶ)で、なんだか忘れられがちだが、「昔ながらの方法で母親の葬式を出す」という話だったはずだ。

チャン・イーモウのいい所は、単なる「昔は良かったセンチメンタル」に終わらせないことにある。
本作でもそれは生きていて、あの食事シーンだけでも、この映画は一見の価値がある。
おそらく、肉体的・精神的コミュニケーション自体も「失われつつある文化」として捉えているのだろう。

最後にもう一つ。チャン・イーモウの描く主人公は常に強情ッパリである。
いつも「もういい加減やめればいいのに」と思うような奴ばっかりだ。
これは、チャン・イーモウを世界の一流監督に押し上げたコン・リーが演じる役柄もそうだったし、
チャン・イーモウを平凡な監督に引きずり下ろしたチャン・ツィイー演じる役柄も同様だ。
そしてその強情な主人公がそのまま高倉健に受け継がれた結果、一つの結論に達する。

まったく迷惑な観光客だ!

日本公開2006年1月28日(2005年 中)


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