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真夜中の弥次さん喜多さん

監督:宮藤官九郎/新宿ジョイシネマ3/★2(38点)本家gooDB公式サイト

「映画」「舞台」「テレビ」は別な媒体であることを再認識。もしかすると小池栄子は大女優かもしれない。
橋本忍の『幻の湖』的な「名脚本家は名監督にあらず」なのか、はたまた寺山修司の域に至ったのか、なんてことが争点かと一瞬思ったが、どうやらそんな次元ではないらしい。

現実的には不可能ではあるが、本作が「舞台」なら面白かったかもしれない。
舞台(特に小劇場系)は、話が「肥大化」していくことに面白味が見出せる場面が多い。限定された空間にも関わらず「ここまで世界が広がるか!」と感じ入らせてバッと暗転、その余韻がまた観客の想像力を刺激し、脳内で世界を広げさせる。つまり舞台は「広がりのベクトル」を持っている。
ところが映画は逆だ。早々に話を広げ、それが「収束」していくことに映画的な面白さがある。様々な伏線が一つになっていくワクワクドキドキこそ「映画的興奮」。映画は「収束のベクトル」が重要なのだ。そしてこの映画は前者「広がりのベクトル」の作りなのだ。
小ネタは面白い。だがそれは映画的な面白さではない。

クドカン脚本のテレビドラマファンとしてこの映画が何より不満なのは、肝である「リズム」が感じられない点にある。だがそれは一概に演出力のせいばかりではなさそうだ。

私事だが、先日、編集したビデオをFlashに変換した。テレビ画面で見る分には「私に心地よいリズム」でカットを割っているにも関わらず、Flash化して小さい画面で見てみるとカット割が早すぎる気がするのだ。「マンガや小説を単行本で読もうが文庫本で読もうが内容は変わらないのと同様、スクリーンで観ようがビデオで観ようが映画も変わらん」という説もあるが、その媒体の主要な要素である「情報量」を表現する画面サイズが本当に無関係なものだろうか?

何が言いたいかというと、映画とテレビは体感する「リズム」が異なる気がするのだ(必ずしも画面サイズに比例するという意味ではない)。
クドカンの演出は必ずしも下手ではない。無難で普通の演出だ。テレビだったら及第点だろう。テレビは台詞の「リズム」がドラマの「リズム」にほぼ直結する。だから無難で普通の演出がかえって良い場合が多い。ところが画面サイズの大きい映画は少し違う。リズムの要素に於ける「台詞」の比重は低くなり、「画面」そのものの比重が高まってくる。だから映画は、無難で普通の演出よりも、違和感のあるカット割に「オッ!」と思ったりするのだ。クドカンの台詞回しは、テレビでは最高に「違和感のリズム」だ。だが映画のリズムは台詞だけでは維持できない。

以上、映画について「収束のベクトル」と「違和感のリズム」という側面から長々語ってきたが、本作に於いて唯一この両者を併せ持つ「映画的エピソード」がある。
米を研ぐ小池栄子だ。
長瀬智也が映画になるとてんで華が無いのに対し、小池栄子はむしろ映画でこそ輝いているように思えるのは俺だけか?『恋愛写真』といい。

2005年4月2日公開(2005年 日)


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