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まぼろし

監督:フランソワ・オゾン/CS録画/★5(82点)本家gooDB

いわゆる“美しい”とか“雄大”とかいった言葉とは無縁でありながら、どのシーンをとってもポスターに成り得るくらい完璧な画面。完璧な映画。
そしてその画面を支える【シャーロット・ランプリング】のなんと絵になる年齢の重ね方。
「いつまでも若い頃のままね」なんてのばっかりがいいわけじゃないんですよ、世の女優様方。

しかしこの監督、恐ろしいほど映画を熟知している。

構図のとり方、光りの使い方(この辺は撮影監督の力量かもしれないが)、省略すべき時間の選び方、一転して執拗に見せるべき場面の選択、おそらくこのセンスは天賦の才能なのだろう(昨今この省略と執拗が出来ていない映画のなんと多いことよ)。
赤いドレスで自慰行為のシーンの構図なんてどうよ。寝ているから不自然に感じないだけで、【シャーロット・ランプリング】が画面に逆さまに写ってるんだぜ。こう書いちゃうと何て事ないように感じちゃうけど、この画面がもたらす“違和感”こそ一つのリズムで、物語上の彼女の精神的転機とシンクロする。これを自然に選択できるセンス。

これは癒しの物語だという人もいる。憐憫にすがった話だという人もいる。果してそうだろうか?何しろ彼女は現実を認識していないのだ。癒しも憐憫も何も、その前提である死を認めていないのだ。

これは認識と現実にまつわる物語だ。それだけに終盤の展開はスリリングだ。

死を認めない。
→夫が自殺を考えていた可能性に行き当たる=一部の現実を受け入れ始める。
→姑が同意する「あんたから逃げ出すための失踪だ」。
→姑の同意を認めたくない。確執だけが原因ではない。自己の全否定につながるからだ。
→姑の意見を覆すべく(自己の存在を維持すべく)遺体を確認しにいく(だから彼女は執拗に自己の目で確認することを主張したのだ)。この時は総ての現実を受け入れる心づもりがあったかもしれない。
→腐乱死体。夫の面影は無い。これは夫じゃない。自分のアイデンティティーの一部である夫じゃない。
→現実の全否定

この怒濤の終盤の流れは完全にサスペンスだ。殺しの存在しないサスペンスだ。いや、このサスペンスの展開によって、殺しが存在したかもしれないと逆に感じさせようとしているのかもしれない。直接の殺人ではない。遠因としての殺人。それが彼女の存在。

(2001年仏)95分


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