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永遠<とわ>の語らい

監督:マノェル・ド・オリヴェイラ/日比谷シャンテ/★2(21点)公式サイト

「派手な作品は深みがない」と監督は言っていたが、画面も物語も薄っぺらじゃないか。
なんだ?年寄りのたわごとか?

私なりに「カメラ=ペン理論」を拡大解釈すると、映画、いや映像そのものは、発明から100年以上経った今、文字で書かれた文章と同等であるべきだと思っている。
通常我々が面白いだのつまらないだのと言っている商業映画は、文字の世界で言えば「小説」という一ジャンルにすぎない。ハリウッド映画に至っては「大衆娯楽小説」という狭義のジャンルに過ぎず、その中でコメディーだのラブロマンスだのSFだの細分類された中で好きだの嫌いだの言っているに過ぎない。
それであれば、映画だって「小説」以外のジャンルがあってもいい。
その最たる例はドキュメンタリーだが、他にも詩であったり散文であったり、いろんなジャンルがあっていいと思う(実際そういう映画もある)。だから「映画は芸術だ」とか「映画はエンターテイメントでなきゃ」とか言っているのを聞くと、何て狭い了見なんだろうと思ってしまう。

そう言った意味で言えば、「旅行記」や「政治談義」「文化論」「啓蒙書」の類の映画だってあっていいと思う。これはそういう類の映画だ。
事実、現役最年長の映画監督マノエル・ド・オリヴェイラは「観客の感情だけではなく、理性も納得させたい」と言ったそうだ。

しかし、あくまで「映画」なのだ。映画だったら台詞だけではなく「映画的運動」の中で語るべきだ。

この映画で最も映画的だったのは、恥ずかしながらドヌーヴとマルコヴィッチしか知らなかったが、各国を代表する名優達の4ヶ国語麻雀、もとい談義だ。
途中、観光客の声に日本語も混じっていたりして、言語に対するこだわりをみせ、英語文化の押しつけがましさを語り、どこの国が舞台でも(例えヒトラーでも)英語をしゃべらせるハリウッド映画に厭味を言う。

ついでに話を少し横道に逸らせ他人の受け売りも交えながら私も厭味を書くと、この4ヶ国語会話でも分かる通り映画にとって音声は重要な記号の一つであるにもかかわらず、作家の意図しない所で作られる「吹き替え」なんてものは言語道断、小学生ならまだしも、中学生以上で「吹き替え以外見ない」なんて輩は金輪際映画を見ないでよろしい。

軌道修正。

この映画の映画的な部分は、先に書いた4ヶ国語談義しか見当たらない。
しかもその内容のお粗末なこと。ギリシア語を語源とする単語が多いにも関わらず言語として流通していないなんてことは、大航海時代に既に神話の国へと退化してしまったからだと我々20年前の高校生時代に結論を出しているぞ。あんたの文化論はその程度か。
他にも、舳先がはじく水しぶきや波に揺れる船といった部分にも「映画的面白味」を見出しているようだが、あーた、素人の観光ビデオだってその程度はやりますよ。

つまりこの爺さんの興味の対象は、高校生の青臭い理屈や素人がたまに撮るビデオと同じで、実社会に於ける生身の切実な問題ではない。あくまで「机上の空論」。

その証拠にテロリストのクダリなど、第二次大戦映画に於ける「ヒトラー」、SFにおける「宇宙人」と何ら扱いが変わらぬ「絶対悪」、もしくは不慮の「大災害」と同じ。そこにはテロを生んだ背景やテロリストという人間は描かれはしない。むしろその方が作家として興味がそそられそうなもんだが、爺さんはあくまで高見に立って「机上の空論」しか見えていない。だから映画としてつまらない。

長くなったついでに書いてしまえ。
「いろんな歴史建造物を見て回りました」→「いろんな歴史建造物を見て回る人(母娘)」に置き換えるなんてのも芸がない。
押井守はいろんな人形を見て歩き、いろんな人形を見て歩く男の話を『イノセンス』という物語に置き換えたぞ。
先に書いた「映画は小説でなくともいい」といった意味の事と矛盾するようだが、監督の見たまんま、監督が思ったまんま、をそのまま映像化(本作の場合は台詞化)したところで、果たして映画である意味があるのか、映画としても面白さがそこにあるのか、本でも出版すりゃよかったんじゃないのか、という感想が大なのである。

あ、だから『Talking Picture』なのか。

日本公開2004年4月17日(2003年ポルトガル=仏=伊)

96分

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