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イノセンス

監督:押井守/渋谷シネフロント/★4(70点)gooDB公式サイト

映画館でボロボロボロボロ泣いてしまったにもかかわらず、「それでいいのか」と私のゴーストが囁く。(レビューは長いので読まないほうがいいです。でももし読むなら千葉繁風に読んで下さい)
実は以前から薄々勘付いてはいたのだ。
私は本当に押井守ファンなのか。それは一つの幻想に過ぎず、本当は伊藤和典ファンなのではあるまいか。
かの『パト2』のスタッフが口々に言ったというあの言葉。
「もし伊藤和典がいなかったならば、とんでもない映画になっていたかもしれない。」
これは一体何を意味しているのか。

コアな押井ファンの猛烈な反発を恐れずに言えば、『ビューティフルドリーマー』を除いて、概ね世評の高い押井作品、世評の尺度たるものが曖昧であるならば、純然たる価値基準が存在しない以上興行成績という商業的価値基準に置き換えてもいい、ある程度興行成績を収めた作品は、ほぼ伊藤和典脚本であると言えるのではなかろうか。

押井作品に於ける脚本とは、監督の思想あるいは思考を具現化するためのアイテムとしてのみ存在し、それ故、脚本家という名で作家性を誇示するに足る要素はほぼ皆無に等しい。しかし少なからず、その物語を構築していく上で、脚本家というフィルターを介して監督の思想が世に送られていることもまた事実なのである。

何故(なにゆえ)伊藤和典が脚本を担当しなかったのか、私には知る術は無い。
『天使のたまご』で辛酸を舐め「もう二度と押井とは仕事をしない」と言い放ったジブリの鈴木敏夫がプロデューサーに加わっていたにも関わらず、係る暴挙とも言える行動を許したのは何故か。それもまた、私の知るところではない。

いずれにせよ、その多彩な引用、複雑な言い回し、ギミックに満ち満ちた科白に変わりはなく、押井・伊藤、両者の書く「言葉」の違いが如何(いか)ばかりか、表層上区別がないようにも思われる。
だが伊藤和典のそれは、観客に伝えるべき物語上必要な情報を踏まえたうえで構築される偽装であり、一方、押井守のそれは、まず「ギミックありき」の空虚な言葉にも聞こえてしまう。
その事実・真意はこれまた私の知るところではないにせよ、そのギミックに満ち満ちた「言葉遊び」が単なるスタイルにしか見えないのであれば、それはゴダールと同じ事であり、ただ「言いたいだけ」なのであれば、たかやまひろふみ氏のマシンガントークと同じ事に過ぎない。

『ガメラ2』に於いて伊藤和典も聖書の言葉を引用している。がしかし、その意味は分からなくとも、「レギオン」という怪獣名の由来を伝達するという主要目的は果たしている。ギミックを削ぎ落としても、なお観客に伝達すべき言葉を心得ているという点に於いて、脚本を生業(なりわい)とする者に一日の長があるのだ。これぞ世に言う「餅は餅屋」理論。
そして何より、押井守が書く脚本は「おしゃべり」が過ぎる。
己の過度に長いレビューを差し置いて言うのもはばかられるが、饒舌は決して雄弁と同義ではない。
監督の思想を伝達するための濾過フィルターを何故用いなかったのか。

この問題は言葉上だけにとどまらず、ストーリー構成に於いてもまた同様。前作『GHOST IN THE SHELL』に於いて、清掃員のエピソード辺りから「記憶」「生命」といったテーマが浮き彫りとなり観客の興味を大いに引きつけたのに対し、バトーがハックされる件(くだり)、現実と虚構が交錯する件など、単体のエピソードとして観客の興味を引きつけるもののあくまで点在するエピソードに過ぎず、最終的にバトーの意思決定の遠因にこそなれど、観客の興味を維持し続ける線となり得るには充分ではない。

『パトレイバー』に於いて、監督は後藤隊長に自身を投影させた。本作に於いてはバトーがそれに当たる。だが、南雲しのぶとの関係を媒介として自己投影を浮かび上がらせる前者と異なり、本作は対(つい)となるべき草薙素子不在のまま一人語りに終始する。これもまた、伊藤不在の押井という関係に類似していると思うのは私の邪推に過ぎないか。

果たして、私の疑念もまた、何ら確証を得るものではないのだ。

「たかだか12万人しか観ていない映画の続編、しかも海外配給など成功するはずがない」という鈴木敏夫の方針であったのか、既知の我々にとっては自明の事であったにも関わらず、かの一般大衆へ向けた常軌を逸した大宣伝の中では、あたかもそれが霹靂の新作であるかの如く、続編である事は一言も触れぬまま、ただひたすらジブリ的現実主義に徹したのは果たして正しかったと言えるのか。
あるいは、前作を知らぬ者でもまた楽しめるという事それ自体が「虚構」だったのではあるまいか。
不覚にも私が暗闇の映画館で人知れず大粒の涙をこぼしたのは、豪勢な絵作りでもギミックに満ちた科白回しでもなく、草薙素子の登場場面であり、ジャケットを掛けるバトーの姿であり、これこそ、前作を知る者のみが体験し得る感覚であったことは明々白々。にも関わらず、この宣伝の有りようは如何ばかりか。フォロー・ミーか。ついてこいか。イノセンスは日テレ中か。

この長い長い独白の最後に、一つだけ押井守を擁護するならば、誇大宣伝効果によって何も知らぬまま本作を見せられたことにより、魅せられたならまだしも、ただ呆然とその絵を眺める事しか許されなかった一般観客が最も不幸であったとして、次に不幸なのは押井守その人であるということである。

集客の為に手段を選ばぬジブリ的現実主義。
日増しに高騰する制作費に頭を抱え、ついには監督自身のギャラまでカットし、藁をもすがる思いでジブリの集客力に頼らざるを得なかったプロダクションIG的現実主義。
それもこれも全て押井守自身に起因する当然の帰結であると言えばそれまでであることは否定しない。
だがしかし、内面の絶対性、精神の優位性を以てその存在を誇示する押井守にとって、両者の現実主義あるいは世俗の前に引きずり出された事そのものが、不幸だったに違いない。彼は現実主義の前に晒されて耐え得る人間ではない。

なぜなら、彼自身が「虚構」と「現実」の狭間を彷徨っている人であるから。

2004年3月6日公開(2004年日)


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