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理由



「ルポ」という原作通りの手法らしいが、描いている本質は違ったんじゃないだろうか?原作未読だけど。


監督:大林宣彦/CS/★3(65点)本家
 
2020年にケーブルテレビで鑑賞。
楽しく観たし嫌いじゃないんですが、大林宣彦の物語の解釈はこれで正しかったのだろうか?という話を書きます。
原作未読だからあくまで推測ですけどね。

先に言っときますけど、多部ちゃん(当時新人!)最後の登場シーンと、柄本明・渡辺えり夫妻の民宿(?)の娘のクダリ、これは大林オリジナルに違いない。若い男女の恋の予感・・・みたいなね。若い娘が出てくると映画のトーンが変わっちゃうんだもん。

大林宣彦がこの映画のテーマを「絆」に置いたことは明白です。
前述した若い男女はもちろん、家族や兄妹など、エンディングテーマで歌っちゃうほど(笑)「絆」を描こうとします。

例えば勝野洋が味噌汁を飲むシーン。
それを取り囲む柄本明・渡辺えり夫妻の民宿(?)の面々。おそらくこの映画の中に数々出てくる家族の中で、ほぼ唯一(夫婦喧嘩や嫁姑問題がありながらも)円満な家族なのです。

正直言って、映画はここで大団円を迎える雰囲気でした。
しかしそこから犯人の素性だの「僕も同じようになるかもしれない」「こんな恐怖が隣り合わせかも」みたいなことがオマケのように語られます。
なぜオマケに見えるのか?
一応、犯人の背景の「絆」不足と「絆」を求めたことが犯行“理由”のような論理が組み立てられますが、映画に流れる“感情”はとっくに途切れているからです。原作は犯人の“理由”がオチなのかもしれませんが、映画のクライマックスは(冒頭シーンに立ち返る)人と人の「絆」で迎えてしまったのです。

話は少し横道に逸れます。

私は何度か「ゼロ年代の家族の描き方」について書いてきました。
森田芳光が『家族ゲーム』(1983年)で「家族なのに他人みたい」というテーマを提示しましたが、「他人なのに家族みたい」という擬似家族が多くなったのがゼロ年代でした。園子温『紀子の食卓』(2006年)や三木聡『転々』(2007年)であり、こうした家族の変遷に真正面から挑んだのが黒沢清『トウキョウソナタ』(2008年)だったと思うのです。
この『理由』(2004年)もその一つに数えられるかもしれません。
しかし、大林宣彦はそうした「時代を切り取る」みたいなこととは無縁の人。むしろノスタルジー爺さん。彼が切り取ったのは、時代の最先端としての「絆」のあり方ではなく、ノスタルジーとしての「絆」だったと思うのです。
だから、民宿(?)シーンがクライマックスに見えるし、円満な家庭の下で心を開くことが「家族はかくあるべし」という古(いにしえ)の価値観の象徴だったと思うのです。

話は戻ってこの映画、冒頭で延々「荒川区」についてテロップで説明されます(これは原作にそのままあるんでしょうか?)。
舞台設定は1996年。バブルが崩壊し、平成不況と呼ばれた時代。
これらから推測するに、この話は、荒川区に残された(不似合いな)超高層マンション=「バブルの爪痕」の物語なのではないでしょうか。
「犯人の亡霊が出てくる」みたいなエピローグがありますが、この高層マンション自体がバブルの亡霊だったのです。

「バブル経済という熱病が、街も人の心も変えてしまった」というのが、この話の本質のような気がします。
「絆」どうこうってことじゃないような気がするんですよね。

理由 特別版


(2004年 日)

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