えらい久しぶりに再鑑賞したのですが、しびれるね、これ。
久しぶりの間『アルジェの戦い』(1966)なんか観て、アルジェリアがフランス植民地から独立する過程を知り、そのアルジェリア独立を不満に思う右翼テロが独立を承認した大統領の暗殺を計画する本作と繋がった。
いやあ、人間、歳をとるといろんなことが繋がって面白い。
70年代には「骨太サスペンス」の傑作が多い、と私は思っています。
ウィリアム・フリードキンの『フレンチ・コネクション』(71年)、ジョン・フランケンハイマーは『フレンチ・コネクション2』(75年)や『ブラック・サンデー』(77年)、ロバート・アルドリッチ『合衆国最後の日』(77年)、リチャード・レスターまでもが『ジャガーノート』(74年)を撮っている。そして本作が73年。
「骨太サスペンス」が似合う時代だったのでしょう。
何が理由なのかは分かりませんが、観客も絵空事ではなく「あり得る」と感じる時代の空気感だったのかもしれません。あたかも今そこにある危機(それはフレデリック・フォーサイスじゃなくてトム・クランシーだ)。
ただ、この後80年代になると急速に「短絡的」な娯楽作品ばかりがヒットするような気がします。気のせいかもしれないけど。
私がこの映画を再鑑賞してことさら興味を持ったのは、映画が「神の視点」で構成されている点です。
通常、「サスペンス」は誰かの視点で描かれます。
それは、登場人物と観客を同じ視点に置いて、ハラハラドキドキさせるためです。
ところがこの映画は、ジャッカル、ジャッカルに依頼する秘密組織、ジャッカルを追う警察という3者の行動を、誰の視点でもなく客観的な「神の視点」で描写しているのです。
後から知ったのですが、フレッド・ジンネマンは「観客が結末を予測できる映画を如何に演出するか」という点に興味を持ったそうです。
つまり、「この計画は成功するのか!?失敗するのか!?」とハラハラドキドキ見るのが普通のサスペンスですが、ド・ゴールが暗殺されていないことは皆知っている。ということは、仮に主人公の視点に観客を置いたとしても、「計画の成否」は興味の対象にならない。
そこでこの映画は「知的攻防戦」に主軸を置いたんだと思うんです。
警察がジャッカルの正体を調べる→警察がジャッカルの正体を調べていることを秘密組織が知る→それを教えられたジャッカルが別行動に出る→ジャッカルが別行動に出たことで警察は内部から情報が洩れていることを疑う
この面白さ。こういう「ぬぬっ!おぬしやるな」的な話って最近少ない気がします。
ヒッチコックみたいな「徹底した主人公視点」(『裏窓』なんか典型例)と真逆。
中途半端な視点が一番ダメなんだ。
こんな大人の骨太サスペンスがもっと観たい。
(20.05.16 CSにて鑑賞)
(1973年/英=仏)
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