私の記憶違いかもしれませんけど、黒沢清はミュージカル好きだったような気がするんです。意外と知られていませんがね。
正確には歌や踊りが好きなわけではなく、彼は「圧倒的な映画的瞬間」が好きなのです。歌や踊りにはその力がある、というわけです。黒沢清の中では、ミュージカルがもたらす高揚感とトビー・フーパーの殺人シーンは同列なのです。
さて、それを踏まえた上で。
前田敦子演じる主人公は「ミュージカルの舞台に立つ夢があるけど、恋人と結婚して家庭に入る道もあるかもしれない」と思っているわけです。これはそっくりそのまま「ミュージカルを撮ってみたい夢があるけれど、それはちょっと自分には無理かもしれないと思っている黒沢清」に置き換えられるのです。
この映画は、主人公のミュージカルへの夢と黒沢清のミュージカル演出への夢がリンクするのです。嘘です。
ずいぶんと今回の黒沢清は、この映画の前田敦子に「現代若者像」をおっ被せます。
スマホでしか世間と繋がれない。常に何かから逃げている。反射的に「大丈夫です」「できます」と言うけれど「どうすりゃいいんだ?」とブツクサ言い、追われる原因がビデオカメラだと思えば平然と捨てる。常に「やらされている感」の中で生きていて、檻の中のヤギに共感するほど自由を渇望している。いや、家畜を野に放ったって自由じゃないんですよ。本人にしてみりゃ不自由なだけ。メェ。
そんな現代若者あっちゃんに、「大人」の加瀬亮が手を差し伸べるんですね。
「俺も本当はドキュメンタリーがやりたかったんだよ」。
いやいやいや、あんた『アカルイミライ』(2003年)の時、「俺も昔はワルでさ。分かるよ、お前ら若者の気持ち」なんて言いながら近づいてくる大人をぶっ殺してたじゃないですか。
黒沢清も年くったもんだな。
あの頃の黒沢清映画は無人の世界で終わったじゃないですか。ヤギに希望を託すのかよ。愛の賛歌かよ。年くったな。お互いにな。
この世界は不安定であることを描き続ける作家=黒沢清。
彼の映画は「通過儀礼」の映画という人もいます。
本作もまた同様。
不安定(不確実)な世界を生きる若者が、通過儀礼を経る映画。
そういった意味では、黒沢清らしい映画ではあるんです。
あと、女優・前田敦子は嫌いじゃない。
レポーターとして体を張ってる姿にグッときた。
2019年6月14日公開(2019年/日本=ウズベキスタン)
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