主人公3人は(素人の)本人達が本人役が演じていて、なんでも、スーパーバイザーとして本人達と会っているうちに「こいつらいいじゃん。起用しよう」とイーストウッド御大が思ったそうです。本人出演は結果論とはいえ、ある意味“行き着いた形”になったのかもしれません。
『グラン・トリノ』で役者:クリント・イーストウッドを殺した辺りから、監督:クリント・イーストウッドは「実話」にこだわっているように思えるのです。「食指が動く」レベルじゃなく、はっきりとこだわっている。その行き着いた形が本人出演。ま、そんなこと書いてると、次作辺りでバリバリのフィクションやったりしてね(本作が行き着いた形なら反動で戻ることもあり得るし)。
劇中「運命で動かされている」的なことを言いますが、そう言われると、ここ最近のイーストウッド映画の主人公は「運命に動かされた人」だったように思えます。
私の感覚だけで言えば、『ミスティック・リバー』が大きな転機。少なくとも、そのちょっと前の『スペース カウボーイ』は自分達で道を切り開こうとしているもの。
「運命で動かされる人」を描くために「実話」に行き着いた。フィクションだとどうしても「原因と結果」を描きたくなりますしね。実際この映画は、明確な「原因と結果」を明確に切り離した。
でも、こうしてその過程を推測するとその意図は分かりやすいが、素直にこの映画だけを観たら分かりにくい。
主人公の生い立ちと英雄的行動は因果関係があるかもしれないし、ないかもしれない。
世の中は明確な因果関係だけで成り立ってるわけじゃない。
でも、世界はどこかでつながっている。
『ヒア アフター』が似ていたように思うのです。
スマトラ沖地震を描き日本では2011年2月19日に公開されるも、3.11の影響で1ヶ月足らずで公開終了したこの映画は、明確な形での接続は放棄し、「どうやら世界はどこかでつながっているらしい」ということを描きます。
おそらく、それが「運命」。
もしかするとクリント・イーストウッドは、自身が映画を通じて発信すること(役者としても監督としても)を、自分自身の「運命」のように感じているのかもしれません。
日本公開2018年3月1日(木)(2018年/米)
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