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海月姫



生まれ変わったらクラゲになりたいと月海は言うが、俺は生まれ変わったらゾウアザラシになりたい。

監督:川村泰祐/配信/★2(35点)本家公式サイト


ゾウアザラシはオス同士の戦いで勝ち抜くとメスの群れ独り占めなんだって。一夫四十妻くらいのハーレムなんだってよ。俺、生まれ変わったらゾウアザラシになりたい。

この映画、私“だけ”の幸せな空間(いわば竜宮城)が地上げ屋という巨大なサメに襲われそうになり、男装女子のジャンヌ・ダルクが立ち上がってくれて、ともに戦って竜宮城(自分“だけ”の城)が守れてよかったね、めでたしめでたし、というお話しです。

びっくりするほどツマラナイ。

何がツマラナイ要因かというと、自分だけの空間を守るだけで、世界へ一歩踏み出すわけじゃないんですね。いやまあ、インド人は来ますけど。これが同じオタク女子映画『アメリ』なんかと決定的な違い。
ドラマツルギーとしては「竜宮城(天水館)は壊されちゃったけど、私たちはもっと大切なものを手に入れた」あるいは「竜宮城は守れなかったけど、私たちの内側にある大切なものは失わなかった」ってのが正しいと思うんです。

別の物語として読み解きましょう。

「男なんかいらない」というのは男を意識している裏返し。オシャレ女子を嫌悪するのは「同じ女子なのに・・・」という女性“性”を過剰に意識する結果。そんな女性“性”を過剰に意識する主人公(たち)に、「女装男子」「童貞30歳男」という男性“性”を抜いた男ども(老け専も含めて)、言わば「無臭の男ども」が投入される。
その結果どんな化学反応が起きるかというと、何も起きないんですよ。殻を破ることもなければ「このままでいいんだ」という納得感もない。ただ上っ面の事件が起こって、表面上解決したように見せてるだけ。

このドラマツルギーで言えば、女性“性”をフル活用している片瀬那奈との対立構図じゃなきゃいけないし、妾までいた男性“性”の代表=父・平泉成を息子たちが直接倒さなければならない。一見そうなってるような錯覚に陥るけど、決して作り手が“性”を意識しているようには見えない。
(「主に泣いてます」「東京タラレバ娘」「雪花の虎」など、意識的か無意識か知らないけど、東村アキコの原作は女性“性”をベースにしているように思う)

結果としてこの映画、ただただオタクを笑い者にしただけ。
あるいは、「ダメな私のままイケメン(男なら美少女)たちが理由もなく好いてくれる」という妄想、言い換えれば「自然体願望と承認欲求」の充足妄想という、世間から卑下されるオタク的欲望を図らずも体現してしまっていると思うんです(そのくせ各人のオタク設定は全く活かされていませんが)。

私のまま「自然体」なんてのは限度があって、生きるためには大なり小なり世の中と折り合わなきゃいけない。大なり小なり世の中で戦っていかなきゃならない。女性がお化粧するのも戦いなら、好きな異性に好かれたいと努めるのも、仕事で成功したいと思うのも戦いなんです。
しかしこの映画、いや、「自然体願望と承認欲求」というやつは「戦いたくない」けど「勝ちたい(他者に認められたい)」って欲望なんですね。だから世の中で戦ってる人々から卑下されるんです。
子どもの頃は「いつか王子様が」でいいんですよ、だってまだ世の中に出てないから。世の中で戦うべき時期になってもなお子供の欲望のままでいるから「気持ち悪い」んです。
あのね、ゾウアザラシだって戦って勝ち取るんですよ。死かハーレムしかないんです。ま、勝つだけが人生じゃないですけどね。

オタク趣味が悪いんじゃない。その姿勢が問題なんです。
ところがこの映画は、その姿勢を肯定もせず、中途半端に否定しても彼女らを進歩させず、ただ笑い者にしているだけ。戦う者の讃歌にもなってなければ、戦わない者への応援歌にもなってない。

この映画の見所は、菅田くんの女装と飯嶋久美子のドレスデザイン。

(2014年 日)

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