たまたまケーブルテレビで放映していたのを公開時以来20年ぶりに再鑑賞。
たまたまその数日後、脚本の筒井ともみさんにお会いする機会がありまして。松田優作のこと久世光彦のこと森田芳光のこと(死んだ人ばっかりだ)いろいろ話してくれたんですが(本当はそんな話を聞くために会ったんじゃないんですけど)、「そういやこないだ久しぶりに『失楽園』観ました」という私の相槌が原因で話が脱線して、「私は“魔女狩り”の話のつもりで書いたのよ」と言ってました。
「森田監督が、最初と最後を滝の映像にしたいって言うのね」
(知ってます。なにしろ森田フリークですから。)
「それでもう監督が何をしたいかすぐ分かったの。分かった分かった、もう皆まで言うなって言って」
(あー、何が分かったのか分かりません)
「それにこれ、連載が延びたでしょ。」(あ、そうなんですか)
(当時なら自明のことを20年後なので補足すると、渡辺淳一が日本経済新聞朝刊で連載した小説が原作。「あの日経新聞で官能小説を連載している」と中高年男性を中心に、いや、中高年男性のみに空前絶後の話題に。そのブームに東映が便乗したのがこの映画)
「だから製作が始まった時は、心中ってことは分かってたけど、その方法が分からなかったの。渡辺淳一に聞きに行ったわよ」
なんて話を面白く聞いたのですが、もう20年も昔なんですね。“魔女狩り”って視点は新鮮でした。当時は不倫に対して今ほど「魔女狩り感」は無かったように思うんですよ。今時の世間の叩き方は酷いですからね。まあ、私が矢口真里ファンだから余計思うのかもしれませんが。ま、あれは矢口が悪いけどな。
結果として脚本の意図が映画に反映されたかどうかは疑問ですが、筒井ともみの感覚は先見の明があったんだと思います。
ですが、公開当時好青年だった私が自称ナイスミドルになった今、再鑑賞してみると分かるのです。渡辺淳一の原作は(読んでいませんが)まず「死」ありきだったのだろうと。
つまり、歳をとった自分がどんな「死に様」をしたいか、今のシガラミを全部断ち切って自由になれたらどんなにいいだろう、そんな話だと思うのです。実際、友人が病死するというエピソードも描かれますしね。当時渡辺淳一は70歳手前。まったく身勝手なジジイです。
男子中高生「いいオンナと死ぬほどヤリまくりたい」
中高年男性「いいオンナとヤリまくって死にたい」
たいして変わらんな。
しかし私がこの映画が大好きな理由はそこではないのです(<何のためにここまで延々書いてきたのか)。
「理屈じゃなくて官能で繋いでくれ」という東映(岡田茂)側の要望を、森田芳光はきちんと応えてるんですね。
見事に飽きさせない撮影・編集。緩急自在で流麗なカメラワーク。観てるだけでワクワクする。揺れる風呂のお湯。チャックの音。ミゾミゾする。
森田芳光は「官能」じゃなくて「映画的な面白さ」でこの映画を引っ張ったんだと思うんですよ。森田くん出来る子。
実は再鑑賞して評価上げたんだよね。
1997年5月10日公開(1997年 東映)
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