この映画、俯瞰の場面が何度も出てくるんです。私にはそれが“神の視点”に見えましてね。その結果、運命に翻弄される人々の映画に見えたんです。
この映画の感想、以上。
唐突に話を変えますが、私いま、広報の仕事をしてまして。この映画で言えば佐藤浩市ですわ。どうも、佐藤浩市です。
広報の責任者は「64」(できればNHKテレビ版)を、若手広報マンは「空飛ぶ広報室」を観ろという説があります。誰が言ってる説かというと私が言ってるんですが、いい勉強になります。
留置所で不祥事があったとかでお詫び記者会見している上司の姿をブラウン管越しに見た佐藤浩市が、様々な感情が重なってテレビを殴るシーンがありますね。映画としてはいいシーンなんですけど、実際にはちょっとあり得ない。記者会見って広報の所管なのね。会場設営からメディア誘致、現場の仕切りetc.広報は必ず記者会見の現場にいるはずです。
ま、そんな些細な事はどうでもいいんですけど。
劇中でも言ってますが、広報ってのは対メディアの窓口なんです。
従って、組織内のいろんなことを知ってなきゃならない。だから、風通しのいい組織は広報にとって楽なんですね。
ところが警察は縦割りで、部署間に高い壁が立ちはだかり、風通しどころか小さな空気穴一つ開いてない。広報的な視点でも警察という組織は“難物”なようです。
もう一つ広報の話をすると、劇中「交通安全パレードの取材」みたいな話があったでしょ。通常、広報のお仕事ってああいうことなんです。Webサイトを運用したり、新商品をメディアに案内したり、メディアの取材に対応したり。
こうした場合のメディアって、新聞なら文化部とか教育部とか温和な部署が基本で、そこと良好な関係を築くことが仕事なんだけど、不祥事となるといきなり社会部が出てくるんです。私も一度だけ不祥事対応したことあるけど、「他に隠してることがあるんじゃないか」って視点で悪意をもって迫ってくるからね。記者の悪意は『64-ロクヨン-後編』で存分に堪能してください(笑)。
で、何が言いたいかというと、警察の広報の場合、良好な関係を築かねばならないのが記者クラブで、記者クラブは悪意の社会部の集まりだというジレンマがある。その上、警察はいまだに「記者は言ったことだけ書けばいい」という「大本営発表」的な思想が残っている。こうした面も警察組織の特殊性なのです。
この映画を観て改めて感じたのですが、横山秀夫の書く話が「警察小説」と呼ばれる理由は、警察の内部を仔細に描いていることもさることながら、警察機構の歪そのものが物語の核になっているからなんだと思うんです。
2016年5月7日公開(2016 日)
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