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友だちのパパが好き



監督:山内ケンジ/渋谷ユーロスペース/
★4(80点)本家公式サイト
ゴジラ+シェークスピア。説得する言葉を持たない男どもと身体で説得する女たちが紡ぐ、ロマンスのないラブストーリー。
3人の男が出てきます。吹越満演じる“パパ”、娘の“先生”、妻の会社の“同僚”。彼らには必ず「言い訳」の場面が用意されています。パパは離婚理由を娘に問われて、先生は別れ話を切り出されて、同僚は早漏で果てた時に。「お前の歳じゃ分からないだろうけど」「まだ若いから」「いつもはこうじゃないんだけど」ウンヌン。全く説得力のない空虚な言葉を重ねるばかりで、そこには尊敬とか信頼とかいった“絆”が生まれる余地はありません。

一方、女性たちは肉体関係をもって“絆”を作っていきます。むしろ肉体関係を断ち切ることで“絆”を断っていくのです。
(妻の乳房のクダリで、女性にとって肉体が大きな意味を持つことを明示します。ここでも男はアンジーの話なんか持ちだして、説得力のない言葉を重ねるのです)

吹越満に焦点を当ててみましょう。
彼の周囲には、石橋けい演じる妻、娘、娘の友だち、平岩紙演じる愛人という4人の女性がいるのですが、血縁である娘は別として、他の3人とパパは肉体関係があったはずです。しかし娘は家を出て彼氏とヤリまくり、妻は会社の同僚に口説き落とされ、愛人は妊娠中という理由で体を交わせない。つまり、パパと肉体関係を持たないことによって、あるいは他者と肉体関係を持つことによって、パパとの“絆”を断っていくのです。

そんな状況下で(その状況は後から明かされるのだが)“怪物”が現れます。娘の友だちは、理屈も道理も常識も通じない“怪物”、説得不能な『ゴジラ』に他なりません。
この手の話は、怪物の登場が変化をもたらすのですが、先に述べた「肉体関係とパパとの絆」は怪物の登場と関係ありません。従って、怪物が登場する前の“状況”なのです。

この話(設定)の面白い所は、「怪物が家庭を壊す」のではなく、「崩壊した家庭に怪物がやってくる」という点です。実際、彼女は映画の冒頭しか家庭に姿を現しませんし、彼女自身は直接的な危害を加えることもありません。

しかし、この特異な設定の映画は、それでもなお“ラブストーリー”なのです。
それは、最後の最後(いささかネタバレですが)、公園のクダリで種明しされます。
「あ、これ、ロミ&ジュリだったんだ」と気付いた時、特異な設定が“恋の障害”だったことにも気付かされるのです。

キャピュレットとモンタギューという“家”が障害だなんて今時通用しません。だからこの映画は早々に家庭を崩壊させます。もはや夫婦関係ですら障害ではない時代なのです。
代わりに「娘の友だち」「離婚直後」「愛人妊娠中」という障害を設定します。それは家という“不条理”かつ“物理的”な障害ではなく、“常識”や“自制”というメンタル的な(それでいてちっともロマンチックじゃない)障害なのです。
そう考えると、常識が通じない、自分にブレーキをかけない“怪物”が猪突猛進することに俄然意味が出てくるのです。いやもう、彼女を“怪物”と定義すること自体が、常識にとらわれているのかもしれません。

この映画、“怪物”自体よりも、その周辺の人々の“事情”を描写することに重きが置かれています。おそらく、そうすることが“時代”を切り取る手段だったのでしょう。その目論見が見事に成功した映画だと思います。

2015年12月19日公開(2015年 日)

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