ロリータが初めてオッサンの部屋に行くシーンがあります。その時オッサンは日記を書いているんですね。このシーン、階段を登って2階に上がっていくロリータの姿をカメラがワンカットで追うんです。ちょっと「オオッ!」って思いますよ。
一方、ロリータの母ちゃんが日記を見つけちまった後のシーン。言い訳しながらカクテルか何かを作るぜっていう台所のオッサンに向けて、カメラが2階から1階に一気にズドンと落ちるんです(正確にはフィルムを繋いでると思うけど)。これも「オオッ!」って思う。
物語が大きく動く瞬間を1,2階のカメラ移動で魅せる辺り、冒頭シーンの入り方もそうだけど、やっぱり巧いなあと思うんです。巧いんですよ、キューブリック。それは認めざるを得ない。
そしてこのカメラワークは、たぶんある種の実験だったんだと思うんです。いや、この映画自体が実験場だったんじゃないかと思うのです。
まずこの映画が扱うテーマ自体が実験ですよね。ただMGMの商業作品ですから、そうリアルに少女に見える女の子は使えない。「ゲームを覚えたの」「私達のことは内緒」という言葉で関係を匂わせるだけで、直接的な描写はできない。そんな描写が許される時代じゃない。
しかしね、この映画がイマイチなのはそうした制約じゃない。多くの皆さんが書かれている通り、ロリータがそう魅力的じゃないんだよね。これ、フランス映画だったら全然違ったと思うんです。正直言って、キューブリックの映画で女性が魅力的だったことは一度もない。これね、この題材を扱うには致命的だと思うんです。
この題材を魅力的に描くには、テクニックよりハートだと思うんですよ。大林宣彦とか岩井俊二とかの美少女好きの映画は、監督がカメラ越しに恋しているのが分かるでしょ。でもこの映画の向こうに見えるのは女性に対する「悪意」。あるいは「女性嫌悪」。何かこう、キューブリックの一面が透けて見えるような気がする。
この話、大林宣彦とかリメイクしないかな?今関あきよしでもいいよ(<オイオイ)。
(1962年 英)
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