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紙の月

紙の月監督:吉田大八/ユナイテッド・シネマとしまえん/★3(51点)本家公式サイト

『八日目の蝉』との類似に見る角田光代の特性と吉田大八の消化不足に関する一考察
私は吉田大八を「面白くなりそうな題材や素材をソコソコにしてしまう監督」と評していて、そんな先入観なく観ているつもりなのですが、結果として本谷有希子の『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』も西原理恵子の『パーマネント野ばら』も「ハジけた題材を凡庸な結果にしてしまう」と似たようなことをいつも書いていた。あ、『クヒオ大佐』もそうだ。
しかし『桐島、部活やめるってよ』が奇跡的な成功作だったので本作も期待していたのですが、やっぱり奇跡だったのかな?なんだか元に戻ってしまったような・・・。

そして一つ気付いたのです。吉田大八は「思ったことを形にする手腕がない」と思っていたのだけれども、そもそも「物語の本質を捉えられてない」のかもしれない。『桐島〜』は(原作を後から読んで気付いた面もあるが)、彼なりの原作の誤読がいい結果をもたらしたように思えてきた。『紙の月』は脚本が別人だが、脚本の段階でもどうかと思う上、その脚本の解釈すら疑わしい。

原作は未読なので分かりませんが、この映画は「偽物の幸せ」とハッキリと口に出します。
同じ原作者ということを意識はしていませんでしたが、「ここ10年で最高の女性映画」と私が評した『八日目の蝉』もまた、口には出さないが「偽物の幸せ」の物語でした。
そしてこの両者に共通するのは、前提として“女性の幸せ”を巡る話だということ。「偽物の“女性の”幸せ」。ついでに言うなら、ともに「現代の迷い子」を描いているという点も共通しているのですが、そこに触れると話がややこしくなるので止めましょう。

『八日目の蝉』は、主人公である井上真央と永作博美はもちろん、森口瑤子や小池栄子といった周辺の女性達も、短いながらも強烈に“女性”としての苦悩を画面に残すのです。

一方『紙の月』は、宮沢りえの対比として、大島優子や小林聡美が登場します。しかしこれは対比なんですね。『八日目の蝉』のように、それぞれがそれぞれの女性の立場ではなく、あくまで比較の対象なのです。
全力疾走で逃避する宮沢りえの姿にカットバックで挿入されるのが大島優子や小林聡美だけだったら、この映画は“女性”を描く視点を持っていたと思えたでしょう。しかし実際に挿入されるのは男どもなのです。

いずれも“男”の存在が“女性”のあり方を揺るがす話なのですが、『八日目の蝉』は男の登場シーンは短くしかし大きな存在感を持つのに対し、『紙の月』は男の登場シーンは多いのに存在感が強くない。
「私、男の人が怖いんだよね」という小池栄子先生のたった一言で、彼女のこれまでの人生の苦悩を鮮やかに描いた『八日目の蝉』に対し、『紙の月』では、小林聡美の「私は徹夜したことがない」という台詞も、大島優子の「ありがち、でしょ」という台詞も、彼女らの描写が紋切り型過ぎて、その人生を投影する言葉には至っていない。
大島優子のキャラクターはが興味深いのですが、結局彼女は「次長の弱み」を主人公に伝える役割に過ぎず、女性の生き様の側面を描写するまでには至っていないのです。

もう一つ気になるのが腕時計の使い方。
夫との関係を腕時計一つで見せる辺りまでは良かったのですが、大島優子のクダリや若い男との買い物のクダリでも頻繁に使われると、腕時計が何かの暗喩に思えてくるんですね。
たしかに、贅沢、言い換えれば経済的価値(あるいは経済的価値を通した自分の価値)の象徴として使われているようにも思えます。
しかし終盤にはマルっと忘れられてしまうのです。
例えば、若い男が宮沢りえに買ってもらった腕時計を突き返すとか、逆に宮沢りえが返してくれとこだわるとか、小林聡美の前から逃げ出した際に高価な腕時計だけ残されているとか。そういう使い方があったはずです。
結果から逆に考えると、そんな暗喩は存在せず、大島優子のクダリは“次長との関係”の説明でしかないように思えます。

これは一つの例ですが、何かこう、いろんなことが消化不良な、中途半端な印象しか残らない映画でした。

2014年11月15日公開(2014年 日)

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