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8月の家族たち

8月の家族たち監督:ジョン・ウェルズ/新宿武蔵野館/
★3(52点)本家公式サイト

『秋のソナタ』かと思ったら『犬神家の一族』だった。メリル・ストリープは犬神佐兵衛(<言いたいだけ)
とてもよく出来た“戯曲”だと思う。それも小劇場系の。
ただ、やっぱり日本人には皮膚感覚で理解できない。

例えば、ユアン・マクレガーがオクラホマを「中西部」と言い、ジュリア・ロバーツが「は!」って小馬鹿にしたような返答をするシーン。
おそらく「中西部」(字幕ではそう訳してあったが本当はどういう言い回しかは分からない)という言い方は、何か学術的・インテリめいた言い方、あるいは「インディアン/ネイティブアメリカン」のように侮蔑的言い方を避けた新しい呼び方なのでしょう。こうした言い方をするユアン・マクレガーがインテリの都会人であること、それを「あんたは何も分かってない」的に小馬鹿にするジュリア・ロバーツの故郷に対する複雑な思い、冷めた夫婦関係、そういう情報が一度に詰め込まれている。もしかするとアメリカ人には笑えるポイントなのかもしれない。そういうのが皮膚感覚で分かりにくい。ま、英語が分からないってこともあるけどね。

英語が分からないと言えば、大女優メリル・ストリープだって、例えば近作『マーガレット・サッチャー』なんかとは全然話し方が違うんだと思う。訛とか口調とか。ま、分からないんだけどね。

そしてやっぱり、これは小劇場系の“戯曲”であって、映画的な話ではないと思う。
狭い世界の中で、誰も彼もに「あんな秘密がっ!」「こんな実態がっ!」ってのが明るみに出る展開が、うまく表現できないんだけど、なんかこう、小箱にいろんな物を無理矢理詰め込んでいる感じがある。その箱がパーッと開く瞬間、映画的な開放感がないとでも言うのかな。

例えば、田舎の込み入った人間関係と言えば、邦画なら『祭りの準備』とかあるけど、あれは、その土地の閉塞感から脱したい若者の物語であるが故、映画的な広がりがあった。『遠雷』もそう。閉塞感を打破するベクトルが映画的であり、閉塞感そのものが「すごいでしょ」ってこの映画は、映画よりも舞台向きなんだと思う。

その結果、ただの特殊なお話しに見えてしまう。
例えば『秋のソナタ』は特殊な話だったが、根底には普遍的な母娘の物語があった。
普遍的な人間性が欠如したこの映画は、ただの特殊な話を客観的に眺める見世物小屋になってしまう。なんだ『フリークス』じゃん。

ある意味「渡る世間は鬼ばかり」みたいな感じ。ていうか、橋田壽賀子慣れしている日本人には大した話じゃない。ま、「渡る世間〜」ちゃんと観てないけどね。

日本公開2014年4月18日(2013年 米)

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