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白ゆき姫殺人事件

白ゆき姫殺人事件監督:中村義洋/TOHOシネマズ日本橋/★4(88点)本家公式サイト

いろんなことが分かっている中村義洋が絶妙な職人技で描く“無責任”の物語。その最たる例が生瀬勝久の使い方。
この映画が描くのは“無責任”である。

顔の見えないネットの住人らの無責任な(興味本位の)書き込みはもちろん、小学生時代の貫地谷しほりがイジメられる原因もまた友人の無責任な(何気ない)言葉である。近所の住民は「昔火事を出した」と無責任にマスコミに情報を垂れ流し、実の父親ですら真偽を確かめもせず責任逃れで侘びを口にする。綾野剛はもちろんアックンなんか無責任の象徴のように描かれる。
決定打は生瀬勝久演じるテレビキャスターで、番組の報道に誤りがあったことを詫びるのはアシスタントで、彼自身は(あれだけ真実を追求するような口ぶりだったのに)一言も謝りはしない。

この映画は、他者の“無責任”に追い詰められる者の話であり、それがいかに人を追い詰めていくかという過程の物語でもある。
そしてこの映画が現代的だと思うのは、Twitterウンヌンよりも、多くの人間が“無責任”であることに“無自覚”な点にあるように思う。

“無責任”と言えば植木等と思うのはあまりにも昭和的だが、彼は無責任であるという“自覚”があった。
寅さんだって釣りバカのハマちゃんだって、映画史上有名な“無責任キャラ”の彼らは皆、自分が無責任であることを自覚していた。
だが、おそらく、現代は多くの人間が無責任に情報を垂れ流す(自分も含めてだけど)。お手軽な情報発信ツールや匿名性が原因というのが一般的な見方かも知れないが、私は少し違うと思っている。

植木等も寅さんもハマちゃんも「自分なんか世の中でたいして役に立つ人間じゃないよ」という自覚があった。「大した人間じゃない」という気楽さで“無責任”でいられた。「自分の言うことなんか世の中に関係ないでしょ」というスタンスで、それなのに人を動かすから映画の物語となり得た。
しかし現代は、お手軽に情報を発信すると多少なりとも反応が返ってくる。他人に認められた、誰かに影響を与えた、自分が大した人間にでもなったような“錯覚”に陥る。
この映画で言えば、最初の頃のラーメン屋評価のクダリがそうだ。
自分が大した人間にでもなったような気で(それすら無自覚で)発言する。しかし本当は大した人間じゃない。だから、ただの無責任な発言になる。実際、本当に大した人物は自分の発言に責任が持てるものだ。匿名だから無責任な発言が飛び交うのではなく、匿名でしか発信ができないようなレベルの人間の発言だから無責任なのだ(というのが私の持論)。

この映画で唯一(と言っていいかは自信がないが)、自分の“無責任”を“自覚”している人物がいる。貫地谷しほり演じる旧友だ。
彼女は、自分の力が及ばないこと、自分が何かをしてあげられない、大した人間じゃないことを“自覚”している。言い換えれば、自分が責任を持てる範囲を理解している。

そんな彼女が唯一とった行動は、「私はここにいる」と伝えることだけ。

実に奥ゆかしい。二人が感動の再会なんてゲスなことをしないのもいい。
「私はここにいる」。たったそれだけで、一人の人間を救うことができる。
これは、映画の画面(と世の中)に溢れた言葉の洪水に対するアンチテーゼなのだ。
「ああ、そうか。ここに至るために意図的に文字情報を氾濫させたんだ」と気付いた時、中村義洋の職人技を見た気がした。
実に美しく、感動的だったよ。

ま、ネットでこんな映画評を無責任に書いてる俺が言うのもナンだけどね。

2014年3月29日公開(2014年 松竹)

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