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ゼンタイ

ゼンタイ
監督:橋口亮輔/テアトル新宿/
★4(71点)本家公式サイト

ついに時代はここまで来たか。
ゆるいコメディーというかコントの様にも見えるのが、寡作の人=橋口亮輔の映画は、基本、マイノリティーを描き、精神的に痛い話である。

コントの場合は通常、ツッコミとボケというか、善と悪というか、マトモな側とヘンテコリンな側が明確に分けられ、観客はツッコミ(善)の側の視点でボケ(悪)を笑うという形が多い。まあ、最近は「紙兎ロペ」とか「ピーピング・ライフ」とかダブルボケパターンもあるけど。

しかしこの映画は、ボケとツッコミが一定しない。正しくは、観客は(一歩間違えると)どちら側にも転ぶ可能性を秘めている。
例えば、居酒屋で男4人が乾杯の酒を巡ってグダグダ言ってるエピソードでは、「本気で酒と向かい合え」とか言ってる奴が明らかにボケで面倒くさい奴なんだが、一杯目で「発泡酒」とか言う奴には俺もイラっとする。
例えばエピソード「主婦」では、主人公の女性はマトモな“被害者”側で始まるが、当事者と対峙する際には謝りもしない“悪”の側になっている。
エピソード「レジ店員」の主任だけは心の底から共感(同情)するが、「草野球」「コンパニオン」は、もはや誰の視点がマトモなんだか分からない。

この映画がコントと決定的に違うのは、笑わせることではなく、登場人物を(あるいは観客を)苛立たせるためのボケだということにある。
「ゼンタイ」を除き、全てのエピソードが“コミュニケーション不全”で貫かれ、それを笑って済ませられずにストレスとなるのは、社会的な“顔”があるからである
(「草野球」の“キャプテン”と「レジ店員」の“主任”が「ゼンタイ」で再登場するのは、ちゃんと意味があるのだと思う)。
そしてこの映画が、軽妙なコメディーに見えるのは、自殺するほど追い詰められるようなストレスではなく、日常の些細な事にストレスが潜んでいることを描写しているからである。

さて、ここからが「ついに時代はここまで来たか」と思う点。

これまで、こうした社会からの“現実逃避”は、“今とは違う自分”を求めたり妄想したりするものだったように思う。
例えば「白馬に乗った王子様が迎えに来てくれる」とか、「自分は橋の下で拾われた子で本当の親は別にいる」とか、「生まれ変わったらパンダになりたい」とか。いや、パンダのクダリは俺のネタだ。だって奴ら、ゴロゴロしてるだけで皆に喜ばれるんだぜ、いい身分だよな。いや、そんなことはどうでもよくて、今にして思えば、高度成長期に社会問題にもなった“蒸発”も、今の“顔”を捨てて新たに出直したいという精神の現れだったのだろう。

ところがこの映画で描かれるゼンタイの人たちは、“別な自分”ではなく、“顔のない存在”“何でもない人”になりたがっていると描かれる。
自分の個性を全面に出すことではなく、真逆の行動で自らの魂を開放しようとする。

そんな彼らを橋口亮輔は決して笑ったりしない。
マイノリティーに対する彼の視線は優しい。
海に行ったエピソードなんか、実にささやかなエピソードなのだが、こっちももらい泣きするくらい感慨深い優しさがある。
そこには紛れも無く橋口亮輔の映画がある。

2013年8月31日公開(2013年 日)

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