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死霊のえじき

監督:ジョージ・A・ロメロ/DVD/
★3(66点)本家

ゾンビ三部作から考察する「アメリカ」という社会
「夜」「暁」「昼」の「オブ・ザ・デッド」三部作は、ゾンビが世界を席巻していく過程を描くと同時に、(おそらく)図らずも「アメリカ」という社会の変遷を描写しているように思える。
私は前2作でジョージ・A・ロメロを「最先端の映画が撮れる人ではない」と評したが、それは決して「社会性がない」と言っている訳ではない。むしろ、彼は(先読みはしていないが)時代を的確に捉えていたように思う(それが自覚的かどうかは分からないが)。

まず大前提として、「アメリカは侵略国家である」ということを念頭に置いてほしい。これはマイケル・ムーアが『ボウリング・フォー・コロンバイン』で明言したことだが、侵略国家であるが故「自分たちもいつか侵略されるかもしれない」という強迫観念が潜在的にある。だからアメリカは、常に仮想敵を設け、人民の恐怖心を煽り、他者を排除することで多民族国家を維持している。これが今回の話の前提。

ご本尊『ゾンビ』様こと「暁」の部の“ショッピングセンター”こそ、「他者を排除して楽園を作る」典型的なアメリカの象徴と見ることができる。
これは『地獄の黙示録』のカーツ大佐も同じだ。

今どきのハリウッド映画の多くは、この「他者を排除する」か「楽園を作る」かのいずれかを扱っているように思える。前者はヒーロー物やアクション映画で、後者は家族物か恋愛物で。しかし、この両者を同時に扱っている映画は稀だ。さらに言えば、今でも傑作と語り継がれるハリウッド映画の多くは、このどちらも主題ではなかったりする。
「他者の排除」と「我が家の楽園」は潜在的なアメリカ国民のニーズであり、それをソコソコ刺激することがハリウッドの方程式なのだろう。極論を言えば、この方程式でソコソコ“気持ちいい”映画は凡庸であり、この方程式に乗らないか両方扱って(簡単に言えば、それ以外かそれ以上で)初めて図抜けた映画になるのかもしれない。

最初の「夜」の部では、一軒家に立てこもることが主軸となっていた。
もちろん予算的な問題もあったろうが、攻めたり解決したりすることが主眼ではない。バリケードで防御することが中心だ。
これは東西冷戦の(ピークは過ぎた時期かもしれないが)「手を出したら世界が滅ぶ」という危うさをはらんでいた時代の象徴だったとも言える。

「暁」の部は、前述した通り、「他者を排除した楽園」というはっきりしたアメリカの理想を提示し、それが瓦解する様を描いている。

そして本作「昼」の部は、映画としては、経験を積んだロメロが何がウケるか(人を怖がらせるか)を分かった上で、良く言えば「ツボを押さえた」、悪く言えば「日和った」映画と私は受け止めたのだが、思想的には一足飛びに新しくなっている。
アメリカの“力”の象徴である“軍事”と“科学”を主軸にしながら、“第三の選択肢”を提示する。今日もなおハリウッド映画の多くが「善か悪か」「白か黒か」の二極論で「他者の排除」の物語を繰り返しているが、この映画は多用な考え方(可能性)があることを示す。

これはおそらく、(少し遅いが)ベトナム戦争後、言い換えれば、強いアメリカが“挫折”して以降の考え方であろう。そしてこれは今日、アメリカに限らず世界で必要な考え方だと思う。
別に逃げることが最善だと言っているわけではない。しかし、“力”だけでは解決できないほど、世界は多様化している。

(1985年 米)

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