冒頭いきなり「子羊が第七の封印を解いた時、半時間ほど静寂が訪れた」とかなんとか言われたところで、もうね、何を言ってんだか分かりませんや。いやまあ、ヨハネの黙示録なんですがね。七人でラッパ吹くとか言われてもねえ、知らんがな。
さらに言うと、キリスト教的な引用ばかりでなく、土着の寓話(民話)とかも入ってると思うんですよ。何が何のメタファーなのやら、もう分からん。
しかし、何を言ってるのか分からないけど、言いたいことは分かるような気がするんです。
私はベルイマン研究もしてなければ、文献も読んでないので、あくまでこの映画のみから読み解いた勝手な(間違った)解釈ですけどね。
死神とチェスをするじゃないですか。
この死神、死神のイメージってだいたいこんなもんなんでしょうけど、これ、カオナシに影響を与えてるような気がするんです。話がいきなり脱線するけど、今にして思えば、奔放なイメージの氾濫といい、『千と千尋の神隠し』って『第七の封印』的なことだったのかもしれませんな。
脱線ついでに言うと、スピルバーグが好んで使う「(何かを)見る側の顔にカメラが寄る」ショットって、ベルイマンが原型だと思う。
話を元に戻して、死神がまとわりついているということは、死期が近いというわけで、それまでの猶予期間で何かしようとするわけですよ。要するに黒澤の『生きる』ですな。
そこで主人公は、新しい公園でも作ればいいのに、神の存在を確認しようとするわけです。
で、神の存在を確認する旅が、冒頭で宣言している通り「子羊が第七の封印を解く」旅と重なるんだと思うんです。本当は、子羊=キリストと解釈されてるそうですけどね。
その旅の途中、様々な登場人物が隊列に加わるわけです。要するに「桃太郎」。いわばドラクエ的RPGですな。
この人物たちがまた、魅惑的なキーワードなんですよ。騎士、鍛冶屋、旅芸人、道化師、不貞の女、言葉を発しない女、魔女(扱いされた女)、盗人、大天使ミカエルの名を持つ赤ん坊。これら何やら意味ありげな人物たちの投入が、物語を見えにくくする。話が一直線じゃない。素直に鬼退治に行ってくれ。
たぶん、何やら意味ありげの人物たちも、本当に意味があるんでしょう。
最終的に死神に連れられて「死の舞踏」に至るわけですが、この「死の舞踏」もまた寓話か何かで意味があるんです、たぶん。ちーとも分からんけどね。
しかしこの「死の舞踏」、私の見間違いでなければ、ラッパ吹きと同じ7人(死神含めて)いるのです。ま、見間違いだと恥ずかしいのですが。
彼らは「子羊=生贄」というのが私の勝手な見立てです。
彼らが生贄となったことで、この映画の後、第七の封印が解かれ、「半時間の静寂」が訪れるのでしょう。それは、戦争の、あるいは疫病の終焉を意味するのかもしれません。赤ん坊ミカエルと旅芸人夫婦もきっと無事でしょう。しかしそれは「一時の静寂」でしかないのです。
第七の封印が解かれた後は、イエスが再臨して「最後の審判」が行われるそうです(この映画で引用される黙示録は、第6章と第8章がゴッチャになってる気もしますが)。
この映画の制作が1957年。映画の舞台は800〜900年前。違和感のない時代考証も立派なんですが、約10世紀も後の今日、未だに「最後の審判」はないのです。
今はまだ「一時の静寂」の状態のままなのか、あるいはまだ第七の封印は解かれていないのか分かりません。この映画は「予見」だけで終わります。
「この映画の続きは今の世界だ」とベルイマンが言ってるような気がします。千年近くも過去を舞台に、彼が撃とうとしているのは“今”のような気がするのです。私の気のせいでしょうか。気のせいでしょうな。
(1956年 スウェーデン)
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