びっくりするほど好みの役者ばかりの映画で、よだれジュルジュル垂らしながらイソイソと映画館に足を運びましたよ。
誤解ある表現をしておきながら誤解のないように言っときますが、小劇場系の芝居が嫌いなわけじゃありません。むしろ好き。劇団四季みたいな商売まみれの方が嫌い。てか、劇団四季が嫌い。
この映画、前半の空気感や役者の使い方とかは非常に好感が持てる。嫌いじゃない。
しかし何だか、話自体が「みんな一人は寂しいんだ」的な小便臭いことになってしまう。
田口『鉄男』トモロヲに孤独を語らせ、谷村『カナリア』美月には「人がいるっていいですね」と言わせ、鳶が生んだ鷹でおなじみ名女優・安藤サクラ(川越辺りならあんなデリヘル嬢いそうだ)は何故この仕事を?の問いに「暇だから」と答える。実際、この手の質問に対する風俗嬢の答えは「お金」に次いで「暇だから」「誰かに必要とされるのが嬉しい」(いずれも孤独の裏返し)というのが多い(ペペロンチーノ調べ)。
そしてカーネーション綾野剛には「普通でいたい」と言わせ、鬱屈した三白眼でおなじみ新井浩文に「普通でいることは大変」だと言わせる。
さらに山田キヌヲに、そして堺雅人に、「他愛もない話がしたい」と言わせ、ご丁寧に堺雅人はプーこと坂井真紀が残した「他愛ない話」の留守電を繰り返し聞く。いよいよクライマックスという時には『クローズZERO』高橋努が家族と電話で他愛もない話をするシーンを挟み込む。
役者が好きすぎて余計な修飾で話が分かりにくくなったので要約すると、「誰かと普通に他愛もない話ができるって、本当は幸せなことなんだ」ということになる。
この映画はそういうテーマを描こうとしている。
怪優・三谷昇の言葉を借りるまでもなく、それはとても個人的で小さな物語だ。
だから「お前なんか最初から物語の登場人物じゃない」ということにも納得がいく。
だが、この小劇場的なロジックには映画としてのカタルシスがない。
下北沢スズナリ辺りの空間だったら納得したかもしれないが、映画館のスクリーンで観たいのはそんなツマラン主題ではない。それこそルーの水っぽいカレーみたいなもんで、物足りない。この違いは何だろう?
「本当の幸せって、誰かと普通に他愛もない話ができるようなことなんじゃない?」という「青い鳥」的なテーマを、この映画は延々と投げかけ続ける。
でも、投げかけられ続けても、それ自体は映画的なカタルシスにはならない。泥レスを見せられても、そこに熱いものは生まれない。
おそらく、「青い鳥」を探す旅を続けて、最後に「ここに幸せがあったんだ!」と主人公自ら(そして観客も一緒に)気付く方が映画的なんだと思う。
2012年11月17日公開(2012年 日)
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