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マイマイ新子と千年の魔法


監督:片渕須直/ラピュタ阿佐ヶ谷/
★5(90点)本家公式サイト

とっても大人な映画。泣いちゃった。でもこの映画、誰が観るんだ?
まず悪い点を言いますけどね。
最後の方、杉並児童合唱団が歌うsingか何かが流れますよね。あれね、「名作劇場的な文科省推薦的なアレ」(byペンクロフ氏)の臭いがしちゃうんだ。子供が歌うカーペンターズなんて偽善的にもほどがある。いただけない。まったくいただけない。
あとねえ、地味。誰が観るの?この映画。子供はおろか、若者にも一切伝わらない大人な映画だと思うんですよ。そして立派な大人はこの手のアニメは観ないんですよ、普通。

この作品は確実にマーケティングに失敗した映画なんですが、マーケティングを意識しなかったからこそ奇跡が起きた映画とも言えるのです。泣いちゃったんだよなあ。

どうやら私は、「子供が大人の世界を垣間見てしまう瞬間」「大人の階段を登る瞬間」がツボらしいんですよ。
先生の結婚理由のくだり。タツヨシのお父さんのくだり。そして濃密な一夜。
子供達が垣間見る「大人の世界」はかなりヘビーなんです。それに比して、子供達の求める喜びは些細なんですね。誰かの“笑顔”。ただそれだけなんです。そしてその願いは、千年の時をも超えるのです。

私はこの映画を「継承する物語」と読み解きます。

それはタツヨシのお父さんのベーゴマのくだりで明示され、貴伊子が一枚の写真で母親を認識するくだりで補完されるのですが、そこで初めて「千年前の川や道の形が残っている」という設定の意味に気付かされたのです。
小さな時代のスパンで繰り返される“継承”が、大きな時代の“継承”に繋がるのです。そしてその“継承”は、これから先も続くのです。
それはそれは郷愁なんて次元を遥かに超えた雄大な規模で、現代人である我々への警告でもあるのです。汚れた川の神様が風呂に入りに来たなんてレベルの話じゃないんです。

継承について論を進める前に、なぜ新子ではなく貴伊子が千年前の姫とシンクロしたかについて触れましょう。
それは「トトロが活躍するよりネコバスが活躍する方が動画的に面白いから」というアニメーター的な発想などではなく、文学的な符号から見れば、空想上の姫は最初から貴伊子その人だったからに他なりません。色紙と色鉛筆。雛人形と西洋人形。そして都会からやってきた二人。

そう考えると、この物語は、ヨソ者である貴伊子と姫が“埋立地=海”から“この地”に足を踏み入れるところから始まるのです。
そして千年の時を超えてシンクロするという魔法で、真の“この地”の人間となるのです。
一方新子は、貴伊子が“この地”の人間となったのと時を同じくして「千年の魔法は消えた」と言い、ほどなく“この地”を去るのです。(その前に、新子への継承者であるお爺さんが亡くなっている)

我々「継承」と言うと『ベスト・キッド』的な師から弟子へ「人から人への継承」を思い浮かべますが、この映画は“土地(場所)”という「枠」が千年前から不動のものとして継承され、そこを人が出入りしている構図なのです。
人は、この大地に住まわせてもらっている。すごい雄大な話ですよ。
その雄大な時間の流れの中で、人は、そして子供達は、泣いたり笑ったりしてるんですね。
そして、そんな凄い思想を徹底して子供の視点だけで描いてるんですよ、この映画は!

2009年11月21日公開(2009年 配給は松竹とエイベックスなのによ)

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