コメントに書いたことが私の感想の全て。
正直に言えば、私の口先だけのレビューはこの映画のどこも撃てないような気がしている。
どこまでが事実でどこからが創作か分からないが、私小説的なものを断片的に提示している映画なんだと思う。小説というより散文と表現した方が正しいかもしれない。
監督自身が少年期に見て脳裏に焼きついた映像をそのままフィルムに焼き付けたような印象が残る。
だから生々しく鮮烈なのだろう。
そしてそれ故だろうか、この映画には客観的な要素がない。
何故少女は彼を見つけられたか、何故便所にイースト菌を入れたのか、何故「棚を作れ」と言われたのに棺桶を作ったのか、この映画は一切説明しないし、説明する気もない。
必要なのは「彼女が探しに来た」という鮮烈な記憶だけであり、その手順や、通常の映画であるべき「その後の母親のリアクション」などといった説明的な客観要素は不要だったのだ。
(あ、棺桶は言葉が通じなかったからか。今気付いた。)
しかし残念ながら、たった一ヶ所(と思う)客観的な「ストーリーを転がすための説明」描写をしてまう。
悪党達が「本当にあの少年を信用できるか」と話しているシーンがそれだ。
おそらくこれは、映画という“枠”を収束させるための道具立てとしてやむを得なかったのだろう。
この説明がなければオチが付けられなかったと推測するしかない。
そしてラスト、銃声と共に上げた声を最後に少年は姿を消してしまう。
私が思うに、彼はショックのあまりその時の記憶が無いのだ(どこまで事実かは知らないが)。
だから最後は、カメラに指示する第三者の声が入るのではないだろうか。
もうあの場面では少年の視点は消えているのだ。
いや、思い返せば、冒頭も撮影者側の声ではなかったか。
ならばこの映画、監督が自分の故郷に戻り自分の過去を探る「時間の旅」だったのではないだろうか。
そう考えると、順序立てて整理された“情報”で構成されなかったことが腑に落ちる気がする。
ロシア文化に明るくもないし、ましてやソ連時代の下層階級(それも最下層)なんぞ知る由もなく、とてもこの映画を皮膚感覚で捉えるのは無理がある。
唯一の手掛かりとも言える「少年少女の淡い恋心」でさえ、生きるのに精一杯の状況下の彼らと我々との間で、普遍と言えるかどうか疑わしい。
(1989年 露)
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