基本的には楽しんだんだけどね。
“クラスメイト”と評した理由は、ラジオもロックも近しい存在だから。
たださあ、俺が生れる前の話でしょ。曲が全然ピンと来ないんだ。ほら、俺、J-POP世代だから。ワハハハ。
そうした「同世代感覚のなさ」に加えて、「当事者意識」も持てなかったんだ。
沢木耕太郎に言わせれば彼らは“ピーター・パン”なのだそうだが、残念ながら私はピーター・パンに共感を持てない。当事者としての私のポジションはむしろロストボーイ。“ラジオの聞き手側”なのだ。
この映画には聞き手側の視点がない。
聞き手側が、ラジオから流れるロックのおかげで何か救われた、ということなら共感する。
ベーブ・ルースが病気の子供にホームランを捧げた的なエピソードとかさ。ミスター・Tが訪れたら昏睡状態の子供が目覚めたとかさ。
リスナーと真摯に向き合う姿勢は皆無だし。
百歩譲って聞き手側の視点がなかったとして、それなら船上の彼らの心に深い傷を残すべきだったと思うんだ。いっそ誰か死んじゃうとかさ。
心に大きな傷を抱えたまま「それでも俺達はロックを愛し続けるんだ」という話なら共感した。
心の傷は少年一人に負わせているようだが、彼は別に「ロック命」じゃないからね。
さらに百歩譲って、そうした情緒的な(精神的な)部分無しでも良しとしたとして、それならもっと“反体制”に軸を置いてもよかったと思うんだ。
彼らの足かせは、政府(と法律)なわけでしょう。抵抗したのはホントに最後だけだよね。
そうした対決的な要素で重要なのは、悪役が強いこと。
こんな敵役じゃ全然盛り上がらん。
強大な敵に苦しめられて苦しめられて、それを打ち破って初めて爽快感があるんじゃないのかね。
全然苦しんでないよね。勝手に座礁してるだけだし。
さらにさらに百歩譲ったら、もう海に落ちちゃうよ。
(しつこいようだが)基本的には楽しんだんだけど、突き詰めて考えると、「ロック=反体制」という“記号”にドップリ依存した、ただのノスタルジー物のような気がしてきた。
日本公開2009年10月24日(2009年 英=独)
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