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ぼくんち

監督:阪本順治/シネスイッチ銀座/★5(82点)gooDB

原作のかの子はマリア様だが映画では観音様なのだ(観月様か?)
これはもうフェリーニだ(<阪本順治にも甘い私)。

(追記して自分史上最長のレビュー)
実写にしたらリアルな貧乏話になりすぎるんじゃねーか?と仲間内で懸念してましたがね、杞憂だったと言っていいんでしょうかね。
原作未読だから知らないけど、原作のテイストがどのくらい残っているのだろう?
(もっとも私は原作との対比を重要な要素とはしていないのだが。)

清く美しくとか、貧しくても強く生きようとか、親子愛が大切だとか、そういったお決まりの常識は、「貧乏な子供の仕事=靴みがき」という定番と一緒に投げ捨てなければならない。

この映画にあるのはただ一点、「人生」だけだ。

時に人生にも例えられる海。
それを故郷の原風景として配置した監督の意図(あいにく海なし県出身の私にとっては山だが)。
「まずいまずい」と言いながら食べてしまうラーメン。これもまた故郷の実態だ。

「故郷を懐かしむな。憎め」

したり顔で都会で暮らしている田舎者の私(故郷を捨てたとまでは言わないが)は、この台詞で泣くのだ。
この言葉を吐いた真木蔵人もまた「敗北者」としてこの街に戻ってきたのだろう。

この映画に人生の勝者がいないことはミュラさんのあらすじにも書かれているが、「それが人生だ」と監督は突き放す。
笑いながら出棺するのも、泣きながらダンスするのも「人生」なのだ。
能動的であれ、受動的であれ、川の流れに身を任せる如く受け入れるしかない。あるいはそのまま大海原に投げ出されようとも。
しつこいようだが、「生きる」ことを描いているのではない。ただ単に「人生」を提示しているだけだ(その辺もフェリーニ的だと私は思っている)。
そして酷いことに、その「人生」の選択肢は「捨てる」ことしか残されていない。

だが、いつもの阪本節がせめてもの救いとなる。
「映画は終わりだが人生は続く」。
大きすぎる赤いリュックに期待を込めて。

一太が「独りで生きよう」と思う動機をかの子と二太が手をつないで歩く1ショットに集約してしまう阪本順治の力量を過大評価してますがね。
中でも「オクラホマミキサー」から「求愛のダンス」に至る怒濤の流れは圧巻。
手足のビロビロ長い観月ありさが観音様に見えないか?(見えないか)

余談
私の評価が甘いもう一人の監督森田芳光が『家族ゲーム』で、本作と同様松田優作を海から登場させている。
森田芳光によればこれは『ゴジラ』なのだそうで、異物が外からやって来て内にいる者を変えてまた去っていく話の象徴なのだそうだ(私はこれを「鶴の恩返し」パターンと呼んでいる)。
そういった意味に於いてかの子もまた同様なのだが、去るのが異物であるかの子ではなく子供達である点は新しいと思う。
くたー師匠は「泣きたい時こそ笑うことを学ぶ子供と、泣きたいときには思いっきり泣くという感覚を思い出す親の物語」と、私の無駄に長いレビューと対照的に端的で簡素な見事な言葉にまとめられているが、まさにその通りで、言わば、異物とそうでないものが混ざり合って染まり合う物語となっている
(シャツで顔を隠して泣く一太もまた、一つの成長と解釈できよう)。
そして去る者が若者でなければならないことは、過疎の街を故郷とする私には痛いほど分かるのだ。

(原作を読んで追記)
映画における原作の位置付けについて意味を見出さない(無頓着)な私がこんなことを書くのはナンだが、むしろ感嘆する部分があったのでつい。
長いです。気をつけてください(<何を)。
映画と小説はその言語を大きく異にする。地の文が主で人物の心情吐露に長けた小説に対し、時間と空間の制約を受ける映画。その一方で映像を持たない小説もまた違った意味で不自由さを持つ。
互いの不自由さを「文字」と「映像」という言葉で集約してよいのなら、その欠けている部分を補うのが読者あるいは観客のイマジネーションということになる。小栗康平によれば、悲しい出来事のシーンの次に泣いている顔のアップを撮るのは「悲しい」という一点しか伝えられない安直な映像であり、むしろたたずむ後姿をロングショットで捉える方がその背景も一体となって複雑で多くの情報を伝えられるのだという。
これは「解釈」という名で観る側への大きな負担を強いる。知り合いの映画学の先生は、今の若者が映像に慣れているというのは妄想で読解力は著しく落ちていると公言してはばからない。だが、衰えようと何であろうと、受け手の想像力にその補完を委ねなければ映画も小説も成り立たないのだ。
ところが、この欠けている「文字」と「映像」の両方を中途半端に併せ持ってしまったのがマンガである。つまり読者の想像力あるいは解釈のつけ入る余地がほとんどない代物なのである。
文学者に言わせれば、解釈の余地のなくなった小説は「死んだ作品」なのだそうだ。これだけマンガ文化が豊かな日本においてさえ、マンガが研究対象として学問領域の高みにまでなかなか至らないのは、単に歴史が浅いだけではないのかもしれない(BSまんが夜話や最近ではマンガ学を授業とする大学もあるが)。(ちなみに映画とラジオの両方の欠けた部分を中途半端に併せ持ってしまった代物がテレビである)。
そういった意味において、言語の異なる、そしてイマジネーションの入る余地が残されていないマンガに対して、映画的解釈を与えるのは、実は相当の冒険だと捉えねばならない。
※マンガに対して「イマジネーションの入る余地がない」と書いているが、これは「猿でも分かる」という意味合いもないわけではないが、むしろ「一太がどんな顔なのか」といった細部でさえ読者の想像を許さないという意味である。これが意外にも大きな足枷となっていることは、アメリカン・コミックの実写化におけるヒーローの「似合う似合わない」論争などでしばしば見られよう。
しかし、史上最強の「大人の童話」とも言える西原理恵子の原作は、一太や二太の顔は想像させなくとも、その物語性において読者の想像力を刺激する(でなければ映画化する意味はない)。森田芳光はこれをよく「読後感」という言葉で表現するが、映画化において肝心なのは個々のエピソードを忠実に実写化することではなく、この「読後感」を異なる言語媒体でいかに描写するかという点に尽きるのではなかろうか
(ただ、監督と読者の「読後感」に大きな齟齬があると『模倣犯』みたいになってしまう)。
従って原作と映画は必然的に「方法論が異なる」のである。
西原原作の「読後感」はどこから生まれるのか?私が思うに、それは個々の断片的なエピソードの「ぶつかり合い」だ(積み重ねではない)。それが徐々に、そしてクッキリと「生きる」あるいは「人生」というものを浮かび上がらせているような気がしてならない(そこには偶然の産物も混じっている場合が多い)。
だが映画はそうはいかない。「読後感」として捉えたテーマを最終的に描くべく、エピソードを「配置」し物語を「構築」していくのだ。
脚本家に求められる資質は文学(国語)ではなく「数学」の能力だと言われることがある。
そういった点において阪本順治の計算能力は、一般的にやや分かりにくい(不親切な)面もあるが、非常に高いものがあると私は思っている。
テーマ設計における計算が、物語構築ばかりでなく画面の隅々にまで行き渡っている点を、原作を読んで改めて感じたのだ。
海に向かってラーメンをすする大女二人の後姿が、どれだけ多くのことを物語っていることか。

2003年4月12日公開(2002年日)1時間55分


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