July 2019  |  01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31

アカルイミライ




監督:黒沢清/渋谷シネ・アミューズ/★4(65点)gooDB

アカルイクラゲ
映画における表面上に現れない物語を読み取ることを2003年のテーマにしている私にとって、本作はかなりムズカシカッタ。
一度分かってしまえば至って簡単なのだが、その取っかかりが見つかるまで戸惑うのが黒沢映画の特徴だ(<と私が勝手に決めている)。
最初に言い訳しておこう。
メイキング・ドキュメンタリー『曖昧な未来』も観ていないし(いつか観るかもしれないが)、パンフレットも買わず文献やインタビューも読まない「不勉強」な私がこれから書く解釈は、きっと間違っていることだろう。
基本的に仕入れた情報を利用してコメントを書いたりしない(間違った情報を書かないように調べることはあるが)のだが、今回はどうにもこうにも困ったので、わずかに耳に入っている「黒沢清の言葉」を「読解」の手がかりとしたい(長い前置きですいません)。

「大人にとっての未来ではない」(『曖昧な未来』予告より)、あるいは
「「君達には未来がある」というのは若者に向けて「大人」が使う言葉であり、若者は「未来」などというものはまるで気にしていない」といった内容(全然正確に要約してない)の発言。
本来ならこんな発言に基づかず「映画そのもの」から気付くべきだったのだが、この映画は「世代」を描き、若者と未来の関係について描いている。

主人公二人と社長や父の上の世代。そして高校生といった下の世代。

そして描かれる人物は「他人と正面から向き合えない」人々である。
黒沢清は以前から終末観として「無人」を出すことが多い(今回も夢の話として少し触れられる)。
「他人と向き合えない」=「人がいない(対人関係が無い)」と私は勝手に解釈しているのだが、その勝手な解釈をさらに進め、黒沢清は、今の世の中は終末への序曲が始まっていると言っているのではないだろうかと以前から考えていた。
そして今回は(『回路』もそうだったが)、その世の中で「希望」を見出そうとしているのではなかろうか。

クラゲは体内に毒を持つ。
若者もまた同じなのだ。
もちろん本人(本クラゲ?)にとっては毒でも何でもない。ちょっかいを出してくる外敵に対する毒だ。したり顔で近づいてくる大人に対する毒だ。

クラゲは主人公達の(あるいは若者全般の)メタファーなのだ。

そう考えると、浅野忠信は飼われていたクラゲだ。水槽という自分の世界に不用意に手を突っ込んできた大人へ刃を向けたのだ。

一方オダギリジョーは水槽から逃げ出したクラゲだ。戸惑い、自分の居場所を見失いながらも、やがて繁殖し、自ら「光」を放ちながら海を目指す。これこそ彼に出された「行け」のサインだったのかもしれない。

「この上に登ったことありますか?」「何も見えませんね」
彼もまたここから離れていくのだろう。

だが悲しいかな、クラゲ達は「真水」に慣らされてしまっている。それでも海を目指す。目指さねばならない。

ラストは「若者達よ明るい未来をつかみ取れ」と好意的に言っているように思える。
だがすでに大人側になってしまった私はこうも思う。
真水に慣らされ、チェ・ゲバラのTシャツに見られるような「既成のアイデンティティー」しか持ち合わせていない彼らに「本当に明るい未来をつかめるのか」と。
そして我々は何ができるのだろうか。映画の解釈以上に私を悩ませ続けている。

「明るい未来」ではない「アカルイミライ」。

余談
おしぼり工場、廃品回収業。「生産」でも「消費」でもなく「再生」を主とする職業。
これもまたミライへのキーワードなのだろうか。

2003年1月18日公開(2002年日)1時間55分


comments

   

trackback

pagetop