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レイジング・ブル

監督:マーティン・スコセッシ/TV録画 /★5(81点)/再見/本家公式サイト

この頃のスコッセッシの映画には「行間」があった。
あんまり若いヨメさんをもらうと気苦労が多いって話なのか?・・・などという軽いジャブをとりあえず打っといて・・・。

「俺は悪党じゃない」

悪党と手を組まず己の拳一つで頂点に立つ「はず」だった男が刑務所に入り落ちぶれていく。その頃、悪党はどうしているだろう?己の拳で築き上げたものは全て己自身が壊してしまった男の生きざま。壁を殴る彼の拳は自分自身へ向けられたものだ。それでも彼はダウンしない。決して倒れることを認めない人生。

相変わらず「イカレ野郎」好きのスコセッシ(この当時日本ではスコシージと呼ばれていた)だが、例えば前述したような、小説で言えば「行間を読ませる」ような演出があった。「あった」あくまで過去形。

スコセッシ映画の特徴の一つとして「シンプルな日記の様な構成」があると思う。起きた出来事だけを箇条書きにしたような構成。最近のハリウッドは饒舌に語りすぎる。言わずもがなの事まで語りだしたりする。饒舌な表現は逆に表面上の事しか伝えない。何百ページも割いて一日を描写するより、「今日はなにもなかった」という一文の方がその生きざまを伝えている場合もある。

ところが最近の彼は(作風自体は変わっていないにもかかわらず)分厚い小説のダイジェスト版みたいになっちゃってる事が多い。言わずもがなの事を語ってしまっているのではなく、語らねばならぬ所をはしょっている感じがする。一言で言えば「せわしない」。

だがこの映画は違う。本当は分厚い原作なのかもしれないけど、なんだか新聞の死亡記事を膨らませて作ったような話だ。

[ジェイク・ラモッタ死去。ボクサー。ブロンクスの雄牛の異名で人気になるも八百長疑惑で一時姿を消す。その後復帰しチャンピオンに。2度目の結婚で2児を授かるも離婚。晩年は不遇。]

例えばこんな記事、あるいは雑誌等の半ページ程度の人物紹介でもいい。そのわずかな数行にまとめられた人生の影にはこれだけドラマがある・・・といったような事をこの映画は感じさせてくれる。デ・ニーロが歩くだけで、拳を振り上げるだけで、怒鳴るだけで、彼の歩んできた人生が見え隠れする。それの汲み取り方=「行間の読み方」は人によって異なる。そこから読み取る「物語」は人によって異なる。だから映画は面白い。異口同音のコメントが並ぶ映画はそれ以上でもそれ以下でもない。

ボクシングシーンのインパクトもさることながらあまりにも美しいオープニング。そして私は、タイトル戦に挑む彼がロッカールームから通路、会場、そしてリングへと「歩む」ワンカット長回しでノックダウンさ。

(1980年米)


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