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アキレスと亀




監督:北野武/テアトル新宿/★3(50点)
本家公式サイト

ブルーを捨てたキタノはアーティストの夢を見るか
(本作に始まったことではないが)かつて「キタノ・ブルー」と呼ばれた特徴的な青はなりをひそめ、本作で印象的に残るのは、赤(幻覚後の室内)黄(車やガソリンスタンド)。
これらは映画の終盤に配色され、それまでは様々な色が乱れ飛ぶ。まるでアクション・ペインティングの様に。

「キタノ・ブルー」と呼ばれた初期作品は、突発的な暴力とそれに伴う痛みが画面からほとばしり、稚拙で荒々しくも素直にその感性がスクリーンに叩きつけられていたように思う。

言わば、本作に於ける子供時代の絵。
その到達点は『ソナチネ』だったかもしれない。

『みんな〜やってるか!』でお遊びを入れてから、実験期に移る。
『キッズ・リターン』では意識的にカメラ移動を始め、『BROTHER』で海外ロケ、『Dolls』では大胆な抽象描写に挑む。

言わば、本作に於ける青年期。美術学校の仲間と様々な実験をし、アクション・ペインティングの様に様々な色が飛び交う時期だ。
(そう言えば、麻生久美子との馴れ初めはほとんど描かれず、デートの場面すら無い。そう考えると、宣伝文句のような「夫婦の物語」と読み解くのは無理があると思う。)

頼まれ仕事の『座頭市』を挟んで、本作における中年期、自己の迷いを全面に押し出した作品期に入る。
「芸術はまやかしだ」と言い「あいつら芸術分かんないんだよ」と言う混迷期とも言える。

この時期の『TAKESHIS’』『監督・ばんざい!』『アキレスと亀』から、私が感じるのは、「生きる」ことである。正確には「生かされている」と言った方が正しいかもしれない。
本作でも、周囲の人間は(奥さんを除き)ほぼ全員死んでしまう。それでも自分だけは生き続けている。
何故自分が生かされているのか、その苦悩がそのまま映画に描かれている。と思うのは私のうがった見方か。

だが、「生かされている」映画の北野作品に、かつて描いた世界屈指の「男の死にざま映画」の面影はない。もう、あのキタノ・ブルーは跡形もない。
キタノ・ブルーと共にヒリヒリするような粗削りで鋭利な感性もなりをひそめ、テクニックや“頭で考えた”表現が先行する。

さらにうがった見方をすれば、たけし自身、“頭で考えた”表現に気付いているような気がする。
この三作は常に「狂気」に関わる場面が登場する。監督自身が狂気に憧れている節さえある。
私がフェリーニ映画に感じる“説明不能の圧倒的な映画的瞬間”と同類の、言い換えればいわゆる「アーティスト」と呼ばれる狂気に似た何かに、北野武自身が憧れている節がある。
もしかすると、自身が描いた絵はそのための一つの手段なのかもしれない。

だが、その絵がうるさい。

かつて、キタノ・ブルーと呼ばれた時期、彼の映画は画面そのものが“絵”だった
(私の個人的な趣味では、実験期『Dolls』が到達点に思う)。
彼は自分の描いた絵を画面に登場させるようになってから変わってしまった。
映画の画面が“絵”にならなくなった。
もがけばもがくほど、“映画的瞬間”が掌からこぼれ落ちている。
そんな気がする。

もしこの映画のテーマがアキレスと亀の命題なら、北野武の理想(亀)に実体の自分(アキレス)が追いついていないもがき、と見ることもできる。

余談というか馬鹿話

劇中、大森南朋演じる画商が提示する「時代性」が亀で、それに追いつこうともがく真知寿がアキレスと受け止められる描写を散々やって、最後の包帯だらけの姿がまるで亀。
「アキレスが亀になった」というただのギャグなんじゃないか?

さらに余談

「男の死にざま映画」から遠く離れて気付かされる。
世の中誰も言わないけど、女の描写は下手じゃない?

2008年9月20日公開(2008年 東京テアトル=オフィス北野)

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