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トウキョウソナタ




監督:黒沢清/恵比寿ガーデンシネマ/★4(80点)本家公式サイト

「家族」を「世界」に見立てた黒沢清的『家族ゲーム』21世紀版コメディー。コメディー?
めっちゃ面白かったんだよねえ。

「この世界は不安定である」ことを描き続ける黒沢清は、不安定な室内を静謐なカメラで描写することから物語をスタートさせます。
『回路』などでも用いたモチーフ「小さなほころびから静かに蝕まれていく世界」を象徴するように、開いた窓から吹き込む風雨が、崩れゆく家庭を暗示するのです。

この映画における「家庭」と「世界」は一体となっているのでしょう。
いや、黒沢清は、「家族」をモチーフに「世界」を描こうとしているのかもしれません。

私が『家族ゲーム』に例える理由は、この映画、家族誰もが「役割」を演じようとしているからです。
父親は「権威」という言葉をしきりに口にし、小泉今日子様は明確に「母親“役”を誰がやるの」と言葉にします。
兄は「国や家族を守る」という役割を主張し、荷物が重いことを指摘された弟は「背負ってるものが多いから」と答えるのです。

おそらく(私の気付いた範囲では)役割を演じていない人物が二人います。
離婚を選択した井川遥と犯罪に手を染めた役所広司。
そしてこの二人が、「誰か私を引っ張って」と願う瀕死の主人公達を再生の道へと導くのです。

特に役所広司は、「鍵開けは出来る。だが商売は出来なかった」という設定で、「何が出来る?我が社に何を与えてくれる?」と常に役割を求められる香川照之とは対照的な存在として描かれています。
その両極の間に小泉今日子様演じる母親が置かれる。
おそらく、彼女と香川照之の間では指一本触れ合う描写は無かったのではないかと記憶しています(私が見落としているのかもしれませんが)。
一方、役所広司とは、、、ご覧になった方ならご承知のはず。
『ドッペルゲンガー』では、私が突発的に“大好きだ度ナンバー1”になる永作博美嬢にアンナコトヤコンナコトをして、今回は小泉今日子様にまで。ひどい。黒沢清ひどすぎる。いや、羨ましい。いや、そんなことが言いたいんじゃない。

おそらくこれは、「非日常」あるいは「臨死体験」という「再生の儀式」なのでしょう。

沈みゆく船を表面上だけ取り繕うことに努めた津田寛治は、まるで葬列に飲み込まれるが如く世界から消えていきます。
一方、主人公家族は皆「臨死体験」を経て、再生へと向かうのです。
兄は戦場、弟は階段落ち&留置所、父は車に轢かれ、母は誘拐される。みんな「臨死体験=再生の儀式」。いかにも黒沢清映画。

そして再生の果て、彼らが戻ってきたのは(兄は手紙だけですが)、「家」ではなく「食卓」なのです。
散らかってるはずのリビングなんかは一切写さない。ただ「食卓」だけが家族の核として描写される。
少し邪推になりますが、肥大しすぎた家族(世界)が再生し、戻る場所は、小さな“核”なのだと言っているような気がします。

さて最後に、小学生離れした名演奏の「鳶が鷹を生んだ」エピソードについて。
正直、これが一番解釈に苦しむ。
これが一般的な家族物感動映画なら、あの演奏のままエンディングを迎えるところですが、黒沢清は意図的に「主人公達が舞台から降りる」ような演出と音響を付ける。

再生後に、「静かに舞台から去る」ような終わりを迎えるのは(間違っても拍手喝采などはしない)、見方によってはアンハッピーエンドとも受け取れます。
果たして再生は正しかったのか?いやもう、何が正解か分からないんですけどね。

ただ、黒沢清はこれだけ緻密な演出をするのに、「圧倒的な映画の力」と彼自身が呼ぶ「偶然の産物」、言い換えれば「映画の神様が舞い降りる瞬間」を意図的に願っている節があるのです。
以前も書いたことがありますが、『サイコ』のシャワーシーンの対局であるワンカットの殺人シーンなど、「なんだか分からないけどすげえ!」みたいなのを望んでいるような気がするのです。

もしかすると、最後のピアノは、そうした「演出を超えた圧倒的な力」を試したかったのかもしれません。知りませんけど。

2008年9月27日公開(2008年 日=オランダ=香港)

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